2025年12月20日、全日本フィギュアスケート選手権、男子フリーの得点を確認し、日下匡力コーチ(左)に祝福される佐藤駿 写真/共同通信社
(取材・文:松原 孝臣 撮影:積 紫乃)
シーズン中は競技で、オフはアイスショーで賑わうフィギュアスケート。特に日本人の心を掴むスポーツは、華やかさの裏で、実に多くのプロフェッショナルたちに支えられています。選手のサポートはもちろん、衣装デザイン、スケート靴やエッジの管理、舞台照明やMCなど、スポーツライターの松原孝臣さんが彼らの技術と熱意を伝える連載。今回はミラノ・コルティナオリンピック代表・佐藤駿選手のコーチ、日下匡力(くさかただお)さんに話を伺いました。
*「フィギュアスケートを支える人々」(2024年8月30日公開までの一部)と書き下ろしを含む電子書籍『日本のフィギュアスケート史 オリンピックを中心に辿る100年』(松原孝臣著/日本ビジネスプレス刊)が2026年1月20日(火)に発売されます。
●日下匡力インタビューはこちら(前編)
「匡力の温かさだったらいい選手が育つと思う」
埼玉アイスアリーナでフィギュアスケートの指導にあたる日下匡力は、小学1年生のときスケートを始めた。
「自宅にスケート場のチラシが入っていたんですよね。そのスケート場の2階から見て、歩くよりも走るよりも速くて、気持ちよさそうだと思って、『これをやりたい』と両親に伝えたら、『やめないんだったらいいよ』と言われて。そこからずっと続けていました」
日下がスケートを始めたのは、今はもうない「新松戸アイスアリーナ」。スーパーのダイエーに併設されたリンクだった。ここにスケートクラブ「新松戸DLLアカデミー」があり、日下はここでスケートに励んでいた。
「チームでやっていて、都築章一郎先生や無良隆志先生、たくさん先生がいらっしゃいましたね」
いざ始めてみたスケートは楽しかったと言う。
「次々に与えられる課題が面白くて、それに向き合ってずっとやってました」
中学、高校、大学と選手活動を続けていた日下は、卒業とともにやめることを決めていた。
「就職活動をしていて、いくつか会社は受かっていました。大学4年のとき、アメリカの同時多発テロがあったんですね。僕は日本大学の経済学部経済学科だったんですけど金融系にものすごく興味があったので、それが経済にどう影響するのか、もっと経済を学びたい、だから大学院に進みたいと思っていました。そのとき、自分の師匠の浅野敬子先生に『インストラクターにならないか』って声をかけられたんですよ。
内定をもらっていて、大学院も受けたかったのに、なんでこのタイミングで言ってきたんだろうと思いましたが、浅野先生も悩んで悩んで声をかけてくれたんですね。僕は先生に『やれること全部やっていいですか』と答えて、就職活動も大学院受験もやり切って納得した上で『お願いします。一緒にお仕事させてください』と言いました」
決め手となったのは、「やっぱりスケートが好きだったんですよね」。そしてこう続ける。
「浅野先生の教え方、指導の仕方が好きだったので、そこに僕は心を動かされてこの道に入りました。それは温かさです。一人一人と向き合う気持ちがものすごく温かかったんですよ。向き合ってくれるんです。僕に対してももちろんそうでした。温かくて親身になってくれて、何事にも相談に乗ってくれる頼もしい人だったので、自分もそうなりたいと思いました」
なぜ誘われたのかは、「聞いたことはないです」。
「ただ、大学4年生のとき、僕は大学のスケート部のキャプテンをやっていて、そのときから統率力をものすごく評価してくれていて、『匡力の温かさだったらいい選手が育つと思う』って言われていたのは覚えています」
大切にしている浅野からの言葉がある。
「匡力にできないことはない」
何度も言われたと振り返る。
「なんに対してでも言うんですよ。『やったことないのにできるわけないじゃん』って思うことでも言われました」
それを力として、未知の領域にも飛び込んだ。例えば靴の研磨もその一つだ。
「僕がインストラクターを始めたのは川越スケートセンターですが、川越市にスケートショップがなくて、近くに研磨機もなかったんです。都内に持って行くにも時間も交通費もかかるし、郵送したら2日かかる。何かいい作戦はないかなと思ったら、自分でやるしかないわけです。そこで研磨機を置かせてもらって、靴の分解から始めて自分で勉強して、いろいろな人から話を聞いて知識を蓄えて、やれるようになりました。浅野先生の魔法の言葉に助けられてきましたね」
