新宿十二社熊野神社 写真/フォトライブラリー
(吉田さらさ・ライター)
熊野三山から十二所権現を遷して建立
ここ数年、興味深い歴史を持つ神社を訪ねて日本全国を旅してきたが、今回は基本に立ち返って我が家から徒歩でも行ける伝説のパワースポット、新宿十二社(じゅうにそう)熊野神社をご紹介しよう。東京都民の憩いの場のひとつである広大な新宿中央公園の一角にあり、東京都庁からもほど近く、散歩や観光の際の立ち寄りポイントとしてもおすすめだ。はじめて行く方は、高層ビルが林立する新宿副都心にこんな心癒される場所があったのかと驚かれるだろう。
まずは由緒のお話から。一説には、室町時代の応永年間(14世紀末から15世紀初頭)に鈴木九郎という人物が、故郷の紀州の熊野三山から十二所権現を遷して祀ったのが始まりと言われている。この人のまたの名は「中野長者」。中野とはJR中野駅の、あの中野のことだ。
この神社がある場所からは多少離れているようにも思われるが、当時は現在の中野坂上から西新宿一帯を中野と呼んだのだ。今はビルやマンションが建ち並ぶ市街地だが、室町時代はおそらく茫漠たる荒野だっただろう。こんな場所にいた長者とは、いったいどのような人物だったのか。
鈴木九郎の祖先である鈴木氏は、古くは紀州で熊野三山の祠官を務める家柄であったが、源義経にしたがったため、奥州の平泉から東国の各地に敗走する憂き目にあった。中野に住むようになったのは九郎の代からである。九郎は馬を飼っており、浅草の観音様に詣でて、馬が高く売れるように、もし馬の代金の中に宋銭の大観通宝があったらそれをすべて奉納すると祈願した。馬は高く売れたが、代金がすべて大観通宝だったため、九郎はそのすべてを観音様に奉納した。
無一文になって帰宅すると、家の中には黄金が満ちあふれており、九郎はたちまち中野で一番の長者となった。信心深かった九郎は、神仏のご利益に報いるため、まず自らのルーツである熊野三山から十二所権現を遷して十二社熊野神社を建てた。そして、あたり一帯の土地を買って開拓し、さらに莫大な財を蓄えたのである。
九郎の話にはまだ続きがあるのだが、それはまたあとで語ることとして、神社の話に戻ろう。この神社の本宮に当たる熊野三山は、和歌山県南部にある熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社のことである。
古事記や日本書紀によれば、神武天皇は東征の際、陸地からの大和入りを断念して船で紀州に向かうも、途上で遭難して船を失い、熊野の山岳地域を越えるという過酷なルートを取らざるを得なくなった。その際、熊野の神の使いとされる八咫烏が現れ、先導されて無事大和に着くことができたという。
八咫烏とは、日本サッカー協会のシンボルマークともなっている三本足の烏のことである。平安時代中期には「蟻の熊野詣」と呼ばれるほど熊野人気が高まり、都の貴族や公家たちがこぞって出かけ、現在「熊野古道」と呼ばれている参詣路が確立した。
熊野三山に祀られる神々は全部で十二柱。これを総称して十二所権現と呼び、新宿十二社熊野神社の祭神ともなった。「権現」とは『日本の神々は仏教の如来や菩薩が仮の姿で現れたもの』とする本地垂迹説に基づく神号で、十二柱の神々は、たとえば『伊邪那美尊の本地仏は千手観音』という形で、それぞれに本地とする仏がある。十二所の「所」は「社」に変化し、「じゅうにそう」と読まれるようになった。熊野神社前の道路を十二社通りと呼ぶのは、こういう理由からだ。