写真はイメージです(出所:Pixabay)

河崎 環:コラムニスト)

生きるとは「ダメな自分」を知ること

 誰だって数十年、まあ半世紀も生きりゃ、大小の傷も負えば治ったりもする。治ったはずの同じところを2度切っちゃうことだってあるかもしれない。生きれば生きるほど自己肯定感が上がっていく「キング・オブ・右肩上がり」の人がいるとすれば、それは開始地点が相当低かったか、何らかの中毒性があるモノやコトの影響で認識が歪んでいる、または心の病の可能性もある。

 大抵は、生きれば生きるほど「ああ、自分ってダメなやつだなぁ」と知り、「思ってたほどでもない人間だけど、これが自分だ」と受け入れ、そんな自分とこれから先、どう付き合っていくかをじっくり考え出すものだ。

 今年、1973年生まれの団塊ジュニアど真ん中世代である自分が50になったことで、いろいろ考えた。母校である女子中高でも、みんなの生誕半世紀という大きな節目に学年大同窓会が開かれ、実に約35年ぶりとなった先生方や同級生との邂逅には学ぶことが多かった。

 正直、50年連続稼働した生き物には、稼働の結果としての個体差が顕著に出る。あの頃同じ超進学校で、同じ制服を着て、同じようにキャッキャウフフと笑っていた同級生たちが、まさに千差万別と表現するしかない今それぞれの状況を報告する。20代や30代ではどこか「どれほど今の自分が頑張っていて成功しているか」を競うような感触もあったけれど、50にもなると誰かと比べる勝ち負けが人生の目的じゃない、いかに自分が自分に満足して「良く生きるか」だ、みたいな、相対値じゃなく絶対値の自己評価になっているのがさすがオトナだ。