中世のヨーロではまだ遠くに住む人同士が、頻繁に会うのは不可能でしたから、遠距離間の情報のやり取りは、もっぱら手紙を出し合うことでなされていました。当時、離れた場所にいる人と情報をやり取りする必要に迫られているのは、王侯貴族や聖職者、そして商人でした。しかし、まだまだ識字率は低い時代だったので、商人たちは自分で手紙を書くことが出来ません。彼らに代わって手紙をしたためたのが修道士でした。修道士がいなければ、商人は情報発信ができなかったのです。この当時の情報発信は、修道士の力を借りて行われていたのです。
書物は筆写して作られる貴重品
情報について修道士にはもう一つ重要な仕事がありました。それは、書物の筆写です。印刷技術がなかったこのころは、筆写しか書物を作成する方法はなかったのです。そこで、必然的に修道士の能力が求められたのです。
このような作成方法ですから、出版数は非常に少なく、知識は、修道士などの一部の階級の独占物にとどまっていました。修道士は、情報発信と知識の担い手だったわけです。
このような状況に変化が生じたのは、12世紀末のことでした。きっかけはヨーロッパに大学が設立されるようになったことです。特に13世紀中頃のパリ大学には、貧しい神学部学生のための学寮が作られ、ヨーロッパ全土から学生と教師が集まるようになります。パリ大学の学生は、授業で使われる文献の写しを前もって入手しておかなければなりませんが、書物は大変な貴重品でした。そこでパリで「写本業」が発達することになります。
これをきっかけにヨーロッパの写本市場は、拡大していきます。担い手の中心となったのは、人文主義的な学問研究者、宮廷の役人、(聖職者ではない)俗信徒でした。15世紀になると、現在のベルギーにあるブリュージュが、写本製造業の中心となったのです。この頃になると、識字率は以前よりもだいぶ上昇しました。このような過程を経て、西欧の学問の中心は、教会や修道院から大学に移っていったのです。