1年前、2008年の今頃は、米国大統領選挙においてまだヒラリー・クリントン候補が圧倒的に優勢と思われていた。そんな時、1月の末だったか、「昔の名前」がバラク・オバマ応援団に名乗りを挙げて波紋を呼んだ。

 ポール・ボルカー元連邦準備制度理事会(FRB)議長だ。

 1年を経てみると、「マエストロ」扱いされ、崇め奉られた「聖アラン(グリーンスパン)」のイコンは米国株式価格とともに落ち、代わりにその前任者にして1980年代に名を馳せたインフレファイターが、再びその星をスルスル上昇させていた。

オバマ政権で重職に返り咲き

 オバマ氏が何かにつけボルカー氏を相談相手とし、「President's Economic Recovery Advisory Board(大統領経済復興顧問会)」という組織まで新たに設け、そのチェア(代表)という肩書きをもって遇すことにしたからである。

 81歳と既に高齢のボルカー氏は、日々の御用に携わっているふうではない。新設顧問団に加わるメンバーが増え、氏の下に集まった専門家が1ダースくらいになった、などといった話も聞かない。

 いかに大物とはいえ、「元FRB議長」の肩書きだけでは、国際会議に出る際などいくらか不都合を来す。ボルカー氏にそれなりの肩書きを、それも、大統領直結を思わせるタイトルをと、そんな配慮が先にあり、泥縄でこしらえた器が上述の顧問組織だったと、察するにそんな事情ではないか。

 ボルカー氏とはどんな人物だろう。

 上背はゆうに2メートルを超す。胴回りもご立派。どの大統領も小さく見えてしまう。遂に財務長官になれなかったのは、押し出しが極度に立派過ぎたからという説がある。イギリス人が言うplummyな、つまりスモモを口に含んだような(あまり口をあけない)発音で英語をしゃべる。

 経歴でよく注目を集めるのは、カーター大統領のときFRB議長となり、続くレーガン政権を通じて高金利・ドル高を維持し、インフレを根治させた業績である。ただし内外メディアの多くにならいそれだけ言っていたのだと、ボルカー氏について半分も語らないに等しい。

グリーンスパン氏と大違い

 今後のため、次の点を思い起こしておいて無駄にはならないと考える。

 その1 1971年8月15日(米国時間)、金ドル交換停止の歴史的決断が下った際、財務省で国際金融担当次官だった。すなわち、戦後世界金融秩序の埋葬人だった人である。

 その2 金という実体の裏打ちを失い、漂流を始めた変動為替相場制について、一貫して疑念を表していた。「相場のグラフを見てみろ。これが人間の心電図なら、到底生きていけない」などと、近年まで随所で言っていた。

 その3 そこから想像できるとおり、市場を万能視する発想がボルカー氏にはない。市場がその効用を発揮するには、まっとうな規制がなければならないと氏は考える。