作品の中で、父と子がフレンチトーストを作るシーンが2度出てくる。1度目は妻に家出された翌朝、ビリーのリクエストに応えて朝食を作るシーンだ。

 フレンチトーストぐらい簡単に作れると虚勢を張るテッドだったが、卵を割り入れるのはなんとマグカップだ。割れた殻が入ってしまうがそのまま。パンに卵をしみ込ませるのには、マグカップにパンを無理やりねじ込んでしまう。あたふたしているうちに、フライパンのパンは焦げ付く。最後はテッドがフライパンを落とし、フレンチトーストはむなしく空を飛ぶ。

 2度目は、親権裁判に負けビリーの養育を妻に委ねなければならなくなったテッドが、ビリーと暮らせる最後の朝のシーン。以前とは別人のように、テッドは見事な手際でフレンチトーストを作る。18カ月という試練の期間を経て、材料を揃えて焼き上げるまでの段取りをイメージする力がテッドに備わったわけだ。

 それまで料理をしたこともなかったテッド。しかし、しなければならない状況が彼を変える。彼が得たものは料理の手際だけではなく、料理そのものへのリスペクトであったり、日常生活を疎かにしない覚悟だったりもあっただろう。そんな状況を見かねて料理を手伝うビリーも父親とのコンビネーションがどんどん向上していく。息子のビリーにとっても、このフレンチトーストが父親の味として記憶に残るに違いない。

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豚フィレ肉のソテー(博士の愛した数式)

 小説『博士の愛した数式』は、記憶に障害を持つ元数学者の博士(はかせ)と身の回りの世話のために派遣された家政婦の「私」、そして「私」の息子、三者の心の交流を描いた一冊である。

 17年前の事故により、数論を専門とする大学教師だった博士は新しい情報を80分しか記憶することができなくなった。つまり博士は80分ごとに人生が強制リセットされてしまう。こんな大変な境遇でありながら、博士はリセットされるたびにそれを受け入れ、乗り越えようとする。

 この作品の終盤、なにげない普段の夕食として、「豚フィレ肉のソテー」がでてくる。フィレ肉を均等な厚さに切り、小麦粉をまぶしてフライパンに並べていく「私」の手元を、博士はじっと見つめる。フライパンの中にある肉の位置を、少しずつずらす様子が気になるのだ。