経営不安の続く東芝は、8月から東京証券取引所の2部に降格されることになった。半導体子会社の売却も、ウェスタン・デジタルとの訴訟などで難航し、経営再建の見通しは立たない。こうした事態を受けて「東芝解体」とか「東芝崩壊」などと題する本が次々に出てきた。
そのほとんどは一連の不祥事の原因を西田厚聡元社長のワンマン経営に求め、彼がウエスチングハウス(WH)を買収したことが決定的な失敗だったとして「原子力村」を断罪しているが、そんな結果論では歴史から何も学ぶことはできない。当時の彼の立場で考えてみよう。
「選択と集中」のカリスマ
西田氏を知る人は「田中角栄に似ている」という。ガラガラ声で明るく、大胆に即断即決する。その経歴も異色だ。早稲田大学の政治経済学部を卒業し、東大大学院の法学政治学研究科で博士課程まで進学したが、31歳で畑違いの東芝に入社した。妻の縁で東芝のイラン合弁会社に勤務したのがきっかけだった。
その後も彼は海外部門を渡り歩き、1980年代に東芝ヨーロッパの販売部門の責任者としてノートPCに集中投資し、東芝を世界一のノートPCメーカーにした。このようなグローバルな経歴と果断な決断力が評価され、2005年に社長に就任した。
その翌年に東芝がWHを6600億円で買収したとき、西田社長は「2015年までに原発を39基受注し、原子力部門の売り上げを年間1兆円にする」という野心的な目標を掲げた。当時は地球温暖化対策の切り札として原子力が注目され、「原子力ルネサンス」といわれた。
彼は「グローバル展開するには、WHのPWR(加圧水型)技術が必要だ」と強調したが、この見通しは間違っていなかった。東芝のもっていたBWR(沸騰水型)原子炉はトラブルが多く、世界で新設される原発のほとんどはPWRになっていたからだ。
彼は家電などの不採算部門から果敢に撤退し、原子力と半導体に集中投資した。その選択と集中は市場に歓迎され、東芝の株価は2007年にバブル以来の最高値を記録した。彼のカリスマ的な経営手腕は政府や財界にも高く評価され、経団連の次期会長とも目された。