1977年に、この地、出雲地方に伝わる「たたら」を復元した。
現在の「村下」(むらげ=たたらの総指揮者)は木原明さん。
工業高校を卒業後、島根県安来市にあった日立金属に入社し、冶金研究所に配属された。この研究所で、「たたら製鉄」を近代化した「角型溶鉱炉」による木炭製鉄の業務に、若い頃から従事してきた。
奥出雲は製鉄産業の故郷
島根県の奥出雲地方には、江戸時代末まで田部(たなべ)家、桜井家、糸原家、木倉(ぼくら)家など、日本を代表する大手製鉄業者が競ってたたらを吹き、日本の製鉄の中心地であった。
この地に製鉄業者が集まったのは、古くからこの周辺で良質の砂鉄が大量に採れたからだ。
この地の砂鉄を原料にして刀などの鉄器具を得ることは古代から行われていたようだ。古事記に、スサノオノミコトが鳥上山(とりがみやま)で八岐大蛇を退治して天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を得た、とある。それは、鳥上山にいた製鉄業者から、刀を奪ってきたのではないかと言われている。上流に鳥上山がある斐伊川(ひいかわ)は、砂鉄の影響でいつも血を流したように赤く、これが大蛇の血と言われたという。
昔は砂鉄を得るのに「鉄荒流し(かんならながし)」という技法を使った。各沢から水を集めて流れを作り、崖の下に穴を掘って、崖を崩して流す。川を流れる間に比重の差で砂鉄が分離される。大量の土砂が発生し、下流は大きな影響を受けた。
たたらは、粘土で築いた箱型の低い炉に、原料の砂鉄と燃焼剤兼還元剤の木炭を交互に装入し、焚いて鋼を得る日本古来の製鉄技術である。江戸中期に技術的に完成した。
奥出雲地方は、明治維新までは、刀剣用「玉鋼(たまはがね)」の唯一の産地として大いに栄えた。だが、明治以降は日本刀の需要が激減。一方で鋼の生産方法としてはコスト高なため、大正年間に生産が途絶えた。
1940年には軍刀用として「靖国たたら」「業雲(むらくも)たたら」などが復活したが、戦後に再び途絶えた。
途絶えていたたたらを復活
日本刀を鍛えるためには、刀身材料を折り返して鍛錬する。一般的には12回以上折り返す。それが強靱性を持たせる。それを行うには、玉鋼でないと不可能だ。洋鉄は純度が違うため、折り返しができない。つまり洋鉄では日本刀はできない。