この4月に、福島県の浜通りは震災後3回目の春を迎えました。3年経った今、人工物のなくなった浜の大地と自然は以前より栄えているかのようにすら見えます。では震災で人が失い、自然が失わなかったものとは、いったい何なのでしょうか。
自然と人間の解離
福島県には滝桜で有名な「三春町(みはるまち)」という土地があります。この土地の名前の由来は、春の象徴である三種の花、梅、桃、桜が同時に咲くことから名づけられたそうです。
三春町に限らず、福島県の春は唐突に、かつ一度に訪れます。桜と梅が一斉に咲くだけでなく山吹とレンギョウの黄色もきれいに混じります。足元にはツクシと水仙と菜の花が咲き、ウグイスがさえずる中ツバメが飛び交い足元ではカエルが鳴いているのですから、こちらの俳人は季語をどうしているのだろう、と要らぬ心配までしてしまいます。
そのような春爛漫の中、インペリアルカレッジ・ロンドンの医学部6年生、アリスさんが被災地見学にいらっしゃいました。晴天に恵まれた海沿いの通りを立ち入り禁止区域まで南下するドライブをしながら、いろいろなお話をさせていただきました。
途中、真っ青な海と花盛りの山を見ながら、彼女がつぶやいた言葉が印象的でした。
「こういう景色を見ていると、人間以外の生き物はすべてが幸せそうに見えますね。人間がいかに社会的な生き物か、ということに気づきます」
失う人、「失わない」人
津波と原発事故は被災地の人々から多くの人の命と健康を奪いました。土地も、資産も、漁港も、また塩害により農作物の育つ土壌も奪われました。さらに原発事故は、放射能の直接的な影響を及ぼす以前に避難生活・風評被害により多くの方の健康を損なっています。
「それでも妙に大丈夫な人がいるんですよ」
震災直後より相双地区の精神科病院を支えてきた医師が、口を揃えて言ったことです。
「もちろん、被災の後抑うつ状態になっている方は多いです。また、『精神病院』にかかることが身内の恥、と考える文化も強く残っていますから、病院を受診する人よりもはるかに多くの人々が精神的な問題に悩んでいると思います。しかしそれらを差し引いても、予想したよりは落ち込んでいる方が少ない。この地にとどまられた方々には少し選択バイアスがかかっていると思います」
この医師らの言われた「妙に大丈夫」な人々を表現するのは難しいのですが、しいて言えば、2つの特徴が挙げられます。1つは健康というものを自然の一部として受け止めていること。もう1つは、未来に対して「合理的」な考えをしない、ということです。
合理的でない人々
もちろん相双地区でも、多くの人はリスクに対し「合理的」判断をした結果この地に住んでいます。例えばいろいろなリスクを考えたうえでこの土地が安全だと考える、あるいはリスクよりもベネフィットが勝ると考える。その結果ここにとどまられているのです。
しかしそれとは別に、因果関係や確率論ということを超越して暮らしている方々が確かにいらっしゃいます。