(3)今も満たされない中国人の心

 1976年の毛沢東の死により「毛教の啓示」は突然消え去り、10年間続いた恐怖の「政治ゲーム」は終わりを告げた。子供たちは「心から信じていたもの」を一瞬にして失った。しかし、中国人が実際に失ったものは、それだけではない。

 過去50年以上にわたる共産党の支配は、一般庶民の心をずたずたにしてしまった。その「心の傷」はいまだ癒やされていない。その「心の隙間」はいまだ満たされていない。過去50年間の中国人の「心」の変遷を検証してみたい。

(イ)中華教による「心の救い」

 一部の少数民族を除けば、中国には「一神教」型の「神」は存在し得ない。大部分の中国人にとって「唯一絶対神」は、彼らの五感をはるかに超えた抽象的な存在であり、容易にはなじめなかったに違いない。

 漢民族は「神との契約」や「最後の審判」による「心の救い」を信ずるには、あまりにも現実的な民族である。それでは、中国人には「心の救い」はなかったのか。

 とんでもない。過去数千年間、彼らも、儒教、道教に見られるような「先祖崇拝」という「信念」を通じて、「心の救い」を得てきたのである。

 中国では、人間は「個」として存在するとともに、「家族の一員」としても存在する。家族の一員である以上、過去には一族の始祖から祖父母、父母に至る生命の連続が、そして将来には子、孫から末裔に至る「生命の連続」が強く意識されている。

 中国人の現世における個々の行動は、こうした強烈な「生命の連続感」*1の中で意識され、自制されてきた。言い換えれば、中国人は常に先祖と子孫から見られているので、「ご先祖様に申し開きのできない」「一族の名を汚す」ような行動は自然と回避される。

 彼らは、正しいことをしていれば、現世でどんなに迫害されようとも、己の死後に子孫から「立派なご先祖様として尊敬される」という固い信念によって、「心の救い」を得てきたのである。

 このような行動規範は一神教式の「救い」とは全く異質のものだ。しかし、その「救済」の程度、その倫理観・価値観、その行動自制の敬虔さなどすべての面で、中国人の生き様は一神教徒のそれに勝るとも劣らない。

 私はこのような中国人独特の信仰・行動様式を、イザヤ・ベンダサンに倣い、ここでは仮に「中華教」と呼ぶことにする。

(ロ)1949~65年(心の隙間)

 共産革命以前、内戦で国内は荒れに荒れていたが、既存宗教(儒教・仏教・道教・キリスト教など)と伝統文化はしっかりと残っていた。ところが、1949年に中華人民共和国が成立し、社会主義政策・教育が始まると、既存宗教は「アヘン」として否定され、民間信仰は「迷信」として軽んぜられるようになる。

 こうした共産党による非宗教化教育により、それまで「中華教」によって満たされてきた中国人の「心」に微妙な変化が生じ始める。

 最大の犠牲者は1949年以降、小中学校に通った子供たちであろう。代々受け継がれてきた「中華教」を疑わなかった大人たちとは異なり、彼らの「心」は「中華教」では満たされていない。

 社会主義集団化教育が本格化する*2につれて、「中華教」の占める割合は徐々に低下し始め、中国人の「心」のどこかに隙間が生じるようになる。

(ハ)1966~76年(真空化)

証言:我々の中央は、正直言って今非常に厳しい状態にある。何が厳しいかと言えば、中国の封建主義があまりにも根が深いということです。僕は農村に長くいて、現在農村は封建社会主義だと心底感じた

 上も下も、役人はみな、派閥の網をめぐらしている。我々の県だけじゃないですよ。どこでもそう。この閥の網に引っかかったら、どこから抜け出たらいいか分からない。

 ・・・1つの部屋から元の住人が出て行った。新しい人間が入ってきれいに掃除したが、どうしても昔のままに見える。そこで良い物も悪い物も、全部捨ててしまうみたいなもんです。(青色部分は筆者が附した、以下同じ)

 ・・・今、“文革”の良い面を評価することは不可能です。*3

 既に見たように、文革中に既存宗教、伝統文化は徹底的に否定・破壊された。もちろん、紅衛兵が伝統文物を破壊しようとした時、体を張って守ろうとした人々が数多くいたことも事実である。こうした人々の「良心」は歴史に正確に記録されなければならないが、文革の嵐の中で彼らはあまりにも少数派であった。

 しかも、当時一般庶民が退避できる「私的領域」は極小化していた。逃げ場を失った中国人の「心」が急速に真空化していったのも当然であろう。

 「中華教」を否定することこそが「革命的」であることの証明だったから、非宗教化した中国人の「心」は、徐々に、「毛沢東思想」で充満されていった(少なくとも、そのふりをしなければならなかった)に違いない。

*1=「中国思想を考える/未来を開く伝統」金谷治(中公新書)p166-
*2=中国では、1949年からの17年間の教育が文革時代の紅衛兵の傍若無人ぶりの間接的な原因を作った否かという議論がある。「知識青年の歴史」・・・
*3=「ドキュメント庶民が語る中国文化大革命」馮?才著、田口佐紀子訳、講談社 p189