扇沢から関電トンネルをトロリーバスで抜ける。関電トンネル、困難を極めた黒部ダムの建設の中で、特に困難であった場所だ。

 今でこそ、頑丈なトンネルだが、それでもこの上に巨大な山が乗っかっていると思うと気味が悪い。ましてや、当時、暗闇の中で、細い穴を補強しながら、1メートル、1メートルと掘り進めていった人たちは、なんと勇気があったことかと思う。[前篇はこちら]

関電トンネルの工事を阻む破砕帯との長く、苦しい闘い

 9月の初め、私は友人5人と共に、朝5時過ぎに車で東京を発ち、黒部に向かった。

 中央高速は空いていて、2時間ちょっとで安曇野IC。そこで高速を下りて、大町アルペンラインを通り、満開の蕎麦の花畑を見ながら、扇沢に着いたのが8時過ぎだった。扇沢は長野県側の黒部観光の拠点である。すでに標高は1433メートルで、ひんやりとしている。

 ここから先は、車は入れない。広い駐車場に車を置き、トロリーバスに乗ってトンネルを抜ける。前述の関電トンネルである。関電トンネルは後立山連峰赤沢岳(2678メートル)の直下を貫いている。延長5.4キロ。

 その暗くて長い1車線のトンネルを、電動のトロリーバスが音もなく進んでいく。しばらくすると、トンネルの壁に破砕帯の場所が示してあるのが見えてくる。

 1956年8月に始まった工事は、1年で終わらせなければならなかった。しかし、翌年5月、破砕帯にぶつかってからは、工事はまったく進まなくなった。破砕帯というのは、断層に沿って岩石が破壊され、ぐしゃぐしゃになっている部分だ。それにぶつかると、掘り進むことは困難だ。

 もっとも、掘り始めて間もない頃から、小さな崩落は絶えず起こっていた。破砕帯の兆候はあったのだ。不安を感じながらも、崩れた土砂を片づけ、片づけ、慎重に掘り進めていった。とにかく時間がない。立ち止まるわけにはいかなかった。

 そうして、厳しい冬を越えた。ところが5月、トンネルの入り口から2.6キロの地点で、抗夫たちは破砕帯に激突した。大量の水と土砂が噴出した。トンネルの先端は、あっという間に、上下からの圧力で押しつぶされかけた。

木本正次著『黒部の太陽

 ゴーッという山鳴りのような音が聞こえていたという。溶接で補強を試みたが、昼ごろ、それが折れた。避難命令が出され、全員が退いたとき、轟音がとどろき、頑丈な鉄の支柱がバリバリと折れた。

 あっという間にトンネルの先が崩れ、水が滝のごとく流れ出す。雪解け水なので、氷のように冷たい水だ。地面が不気味に浮き上がり、天上が垂れてきた。そして、その上には、無限大の山が乗っかっている(『黒部の太陽』木本正次著参照)。

 これから7カ月の間、トンネル工事は遅々として進まない。地質学の専門家に見てもらっても、先の状態は分からなかった。ありとあらゆる対策が模索され、すべてが行き詰まる。