2012年11月3日の山津見神社、正面奥が拝殿。狛犬の位置には大山津見神の眷属である白狼が据わっている。左に見える社務所も全焼した

 飯舘村佐須の山津見神社拝殿が隣接する施設もろとも燃え落ちたのは本2013年4月1日未明。当日ツイッターのタイムラインに流れてきたその報に接したときは、エイプリルフールの冗談じゃないのかとも思った。

 そこで見た写真には、燃え盛る炎とたちこめる煙の前に白狼のシルエットが黒々と浮かび上がっていた。

 村内には各所に火の見櫓や消防団の倉庫があり、非常時に消防団が駆けつける体制は整っている。今年1月6日には飯舘中学校体育館で出初式が行われ、避難生活で散らばっている消防団員が顔を揃えた。体育館前には消防車が十数台整列していた。

 消防団は消火・防火だけを担っているわけではない。飯舘村では地震で瓦が崩れた家の瓦の修復や防水シートを張る応急処置を施すために屋根に上ったのは消防団だった。村が浪江町からの避難者を受け入れたときの交通整理も行った。

 小学校の校庭で避難者の車を誘導する消防団員に小学校の校長が、原発事故が起きたのだから若い人はあまり外に出ないほうがよいと言ったら、消防団としてやっているのだから自分の意志でやめたとは言えないのだと答えたことを、あとから校長先生から聞いたとその消防団員を息子に持つ父親が語ってくれた。

 相馬市では最後の最後まで住民に避難を呼びかけて回り、自身は津波から逃げきれなかった消防団員が何人もいたことを、かつて立谷秀清市長が聞かせてくれた。(「死なせてしまった消防団員たちの遺志を継ぐ」)

 けして若い人材が豊富とは言えない高齢化が進む小さなコミュニティーの中で、地域の人から頼られ、地域の人を思い、地域の一員としてことを考える次の世代を実践を通じて育てる組織のひとつとしての役割も担っている。

 その消防団が、全村避難に伴う不在で十全に機能しなかった。

 山津見神社の火災では、消火活動にあたった消防車は村内に常駐していた飯舘分署の1台のほか相馬、南相馬など隣接地域からのものを含めて数台あったうち、消防団の消防車は最初に飯舘分署とともに駆けつけた1台だけだったという。この火事で、宮司さんの奥さんが亡くなった。

 消防団の不在は避難当初から心配されていた。避難以後の村内では墓参の線香にも火をつけることが禁じられるほど火の気に細心の注意が払われていた。昨年、お盆で家族とともに一時帰宅していた男性は、並ぶ墓石の一つひとつに線香を置きながら「火のついていない線香は情けない」とつぶやいた。

2013年9月1日:ここに拝殿があった。いまも漂う喪失感の中で白狼は変わらず参詣者を迎えてくれる

 山津見神社を火災後初めて訪れたのは4月27日。正面石段を上ったところで参拝者を迎える白狼は、からだの片面が黒く煤けていた。その守りきれなかった無念を思い、ざらっとしたからだを撫でた。

 背面の木立は拝殿側の樹皮が炭化していた。以前は拝殿に隠れて見られることのなかった裏の石垣に、寄進者の名前を刻んだ石が嵌め込まれていた。

 拝殿や社務所を失った空間は広々としていた。社務所跡には花が供えられていた。無事だった手水舎では、脇のしだれ桜の枝に千羽鶴の房といくつもの神籤が結ばれていた。

 飯舘村出身の大渡美咲・産経新聞記者が「焼け落ちた村の守り神に仮の参拝所完成 希望の一歩」と題して村の人の思いを綴っている。

(撮影:筆者)