はじめまして、細尾真奈美です。私は京都西陣に300年続く呉服屋「細尾」の娘に生まれました。現在、滋賀医科大学医学部医学科で医学を学んでいます。

 このたび、福島県相馬市の復興のため活動されている先生方に機会をいただき、福島県立相馬高校で西陣の歴史について講義をさせていただきました。

危機を何度となく乗り越えた京都・西陣

 京都の織物の街、西陣が何度も危機に瀕してきたことをご存じでしょうか?

 応仁の乱、明治維新、第2次世界大戦。戦乱や世の中の変化の度に西陣の織物業は危機に晒されました。10年間続いた応仁の乱では街中が灰燼に帰し、第2次世界大戦では統制で材料の絹が手に入らず仕事が立ち行かなくなってしまいました。

 しかし、危機に負けずに復活を遂げてきたのです。

 中でも特筆すべきは、明治維新の頃。江戸時代中期から幕府による奢侈禁止令(贅沢品である西陣織を着ることが禁止された)や天明の大火、他の織物産地の台頭により、西陣の勢いは陰りを見せていました。

 それに追い打ちをかけたのが、東京遷都です。明治天皇に付いて多くの人が東京に移り、京都の街は火が消えたようになってしまいました。

 このままではいけない。西陣の人々は立ち上がりました。大きな組合を組織し、3人の若者をフランスへ派遣したのです。当時外国へ行くことは命を懸けた挑戦だったでしょう。派遣された若者たちは当時最先端の織機を学び、西陣に持ち帰ります。彼らのおかげで、西陣織は復活を遂げ、再び繁栄しました。

 なぜ西陣が何度も復活を遂げることができたのか。それは、優れた技術を持っていたためだと西陣の関係者は語ります。

 高度な織物の技術を持った西陣の人々は、戦火を逃れて他所に逃げたとしても、その技術を生かすことで生き延びてきました。そして、再び西陣に戻り技術をもって再生を果たすことができたのです。

 また、1人だけの技術が優れていたのではなく、西陣という産地全体の技術レベルが高かったこともその特徴です。