私は自分の進路や就職について、両親に伺いを立てたことがなかった。
高校受験の時も、大学受験の時も、学校での3者面談の前夜に、「それで、どうするつもりなんだ?」と聞かれて、かねてよりの自分の希望を伝えただけだった。
北大に進んだのは、これ以上地元にいても仕方がないと思ったからだが、そこには現実的な問題も絡んでいた。
私には妹が3人と弟が1人いた。そのうえ家計は大変逼迫していたので、現役で国公立大学に行く以外に進学の道はなかった。
滑り止めを受けずに志望校に合格したのは我ながら上出来だったが、つらつら思い返してみるに、そのあたりから私は図に乗り始めたのだと思う。
幾度となく逡巡し、さらなる困難が待ち受けていると分かっていても、自分が望む道を行くしかない。父と母は私の決断を認めてくれるはずだ。
そうした信頼に基づき、私は北大に進み、南米に遊学し、妻と結婚し、さらに屠畜場の作業員となった。
いずれの選択についても父と母は反対しなかった。反対しないだけでなく、理由や見通しを訊ねたりもしなかった。
特に、屠畜場の作業員となることについては、それでどうするつもりなのかと問い質したかったに違いない。もっとも、いくら問い詰められたところで、私には両親を納得させるだけの答えなどなく、彼らの方でも薄々そのことに気づいていたのではないかと思う。
とにかく私はナイフを握って働きたかった。そうして自分を鍛え直す以外に生きる道が分からなかった。
屠畜場に勤めてから10年後に、私は作家としてデビューした。おっかなびっくり豚のしっぽを切っていた時には、やがてそうした未来が訪れるとはまったく予想していなかったし、例によって両親には小説を書いていることなど知らせていなかった。
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前回の終わりに、「続きは次回」と気を持たせておきながら、すっかり回り道をしてしまったが、私の姓が変わることに横槍を入れてきたのは母だった。
「そんなバカな話はない」
思いがけない反応に動揺していたのでやり取りを正確に覚えていないのだが、母はそうした意味の捨て台詞を言って電話を切った。
身重の妻に心配をかけるわけにもいかず、私は電話の子機を持って別室に行った。すぐに電話をかけ直して、母に事実婚のまま出産を迎えるデメリットについて説明したが、今は聞きたくないと断られて、その日はそれきりになった。
進学・結婚・就職のいずれについても一切注文をつけなかった母が、私の改姓にはどうしてこれほど頑ななのか?