5月1日、アフガニスタンとパキスタンの国境付近で、両国の警備隊の間で数時間にわたる銃撃戦があった。詳細は定かでないが、パキスタンが設置した国境監視施設が自国内にあるとアフガニスタンは主張、カルザイ大統領は「デュアランド・ライン」と呼ばれる現在の国境線を認めないとさえ発言している。
英国とロシアの膨張戦略で何度も引き直された国境線
19世紀、帝政ロシアの圧倒的膨張力に対抗せんと、インドから北へと向かう野望ありありの大英帝国は、その狭間のアフガニスタンへと侵攻を開始した。しかし惨敗。
とはいえ、ロシアが中央アジア地域を次々と配下におさめる現実に、1878年、再び戦争を仕掛け、何とか保護国化することに成功する。そして93年に設けられたのがこの国境線。
当時の英国領インド帝国外相の名をとり「デュアランド・ライン」と呼ばれている。しかしそれは、アフガニスタンの中心をなすパシュトゥン人の居住地域を引き裂く線ともなっていることにも、今回、カルザイ大統領は言及しているのだ。
その頃、ラホール(現パキスタン領)などでジャーナリスト活動を続けていたのが、「ジャングル・ブック」で知られる英国人ラドヤード・キップリング。
こうした情勢を織り込んだ作品を数々発表しているキップリングの代表作「キム」(1950、映画化された時の邦題は『印度の放浪児』)では、両国のせめぎ合いを「グレートゲーム」と呼び(以前からあった表現ではあるようだが)、以後、英露の膨張合戦を示す表現として広く使われるようになる。アフガニスタンは、そのグレートゲームの緩衝地帯となったのである。
一方、英国の繁栄を支えるゲームの重要な駒インドでは、国民会議が設置された。産業界の代表、知識人層などの不満を吸収するための組織である。
しかし、その中から反英急進派が台頭してくると、民族運動の中心地ベンガル地方を分断することでその勢いを止めようと「ベンガル分割令」を1905年に発令。
それがかえって反英闘争を激化させてしまうことになれば、今度は、東ベンガルに自治州をつくることで利を得るはずのイスラム教徒のために「全インド・ムスリム連盟」を設立。
結局、1911年、分割案は撤回されることになるのだが、こうして設けられた2つの組織は、以後独立へと向かうインドの中心組織となっていく。そんな独立までの経緯は、リチャード・アッテンボロー監督の描く“マハトマ”ガンジーの一代記『ガンジー』(1982)が分かりやすく描写している。