ニッケイ新聞 2013年1月10~12日
(1)3歳で訪日、母親と再会=義務教育はわずか2カ月
あと2年で、デカセギ開始年といわれる1985年から30年が経とうとしている。金融危機以来の4年で約10万人のデカセギが帰伯した。戦後移民5万人の2倍に匹敵するこの“民族大移動”は「第2の戦後移民」ともいえる出来事だ。しかも、この30年間に日本で育ち人格形成した世代は2、3割以上を占めるともいわれ、年々その割合を増しており、「第2の子供移民」ともいえる層を形成している。
彼らは訪日就労ブームの申し子のような世代だ。「デカセギは是か否か」――20数年前に邦字紙を騒がせたそのような問いかけの結果が、いま当地に次々と舞い戻っている。どこに居場所を作り、何をして生活していくのか。帰国数年の率直な声を11回にわたり連載する。(酒井大二郎記者)
「あー、どうも。今日はよろしくお願いします」。帰伯子弟をテーマに記事を書くことを決めた後、最初に声をかけた男性は、指定した日本食レストランに時間通りに現れ、流暢な日本語で話しかけてきた。
190センチを超える長身に浅黒く彫りの深い顔立ち。吉永クラウジオさん(21、三世)は、それまでの人生の大半を過ごした日本から2011年に帰伯したばかりだ。
日系を感じさせない容姿については、自ら「母は日系二世ですけど、父はインディオとイタリア系のハーフ。おかげでこんな面なんですよ」と笑い飛ばす。
そんな外見とは裏腹に、日本で育ったため母語は日本語で、ポ語は日常会話程度だという。聖市東部のイタケーラで生まれ、わずか3歳で訪日し、一昨年に単身で聖市に戻った。
吉永さんが語るところによれば、実の父は生まれる前に失踪してしまった。彼が生まれた直後に母はデカセギに出発したので、親戚に預けられ、親との幼年期の思い出はほとんどない。親戚の家を離れ、日本の母親の元に連れて行かれたとき、別の男性が一緒に住んでいた。訪日した後も、親との距離は縮まることはなかった。
「家にいるのが苦痛で、小学2年から友達の家に寝泊りするようになった」「両親は放任主義で、義務教育9年間で実質2カ月位しか登校しなかった」「依存するのが嫌で、小学校のうちから道路整備のバイトで小金を稼いでいた」と家族関係の不仲を象徴するエピソードを次々に披露し、「現在でも家族とはほぼ絶縁状態」と付け加えた。
ただでさえ離婚率が高い当国において、デカセギという環境はさらに家庭崩壊に拍車をかける傾向があると、以前から指摘されてきた。そのような家庭環境は、子弟の人格形成にどんな影響を与えるのか。
単身訪日した母から切り離されて育てられ、愛情に飢えながら幼年期を送り、ようやく母親と生活できるようになると思ったら、見たこともない“父親”がいた。
そんな家庭状態では、躾どころではなかったに違いない。ブラジルでも日本でも、きちんとした公教育とは縁のない幼少期を送ることになった。
このような家庭の不和に加え、外見から来る「外国人」として扱われる日々――。
「まあ、自然にグレましたよね。悪いやつらとつるんで何かするってことは少なかったけど、中学に入る前から喧嘩ばっかりの毎日になった」。まるで当たり前の出来事であるかのように、そう淡々と回想する。
その挙句、「少年院に2度入った」と告白した。