中国の辛亥革命に続いて、1917年にはウラジーミル・レーニンの主導した共産主義革命がロシア帝国を倒し、ソビエト政権を誕生させた。いずれも王朝が消え去って、新たな政権への交代となる。
「ボリシェヴィキの成功の唯一の理由は、人民の底辺層の広大かつ単純な欲求を成就させ、・・・・彼らと協力して新しいものの骨組みをうち立てた点にあった・・・」
たまたま最初にロシアで起きたに過ぎない共産主義革命
レーニンの革命を目の当たりにした米国人の社会主義者・J・リードは、1919年にその著『世界を震撼させた10日間』でこのように書いている。物事が始まった時には、まだ夢と希望に溢れていた。
ロシアでの内戦が片づいてもおらず、ソ連(ソビエト社会州共和国連邦)も出来上がっていないその年に、レーニンは世界革命を目指すためのコミンテルン(第3インターナショナル)を結成した。
当時の共産主義運動は国際的な色彩が強く、それだけ世界革命への夢も大きく膨らんでいた。それが、たまたまロシアで最初に起こったに過ぎない。そう考えたうえで、各国の共産党をモスクワで束ねて、次の世界革命のステージに進もうというわけだ。
ヨーロッパの急進左派は、それまで大して重視していなかったレーニンがことを成し遂げるのを見るや、掌(てのひら)を返したようにロシアに続けとばかりに彼の下に集まった。こうして、西側の多くの穏健左派政党を置いてきぼりにしたまま、世界の急進派を集めたコミンテルンは発進する。
各国の共産党はこのコミンテルンの指令と決定に従う、というシステムが認められて、世界革命を目指す共産主義運動の総本山たるモスクワと、その地域支部の各国共産党という位置づけが出来上がった。
そこまでは頭で考えればよかった。だが、置かれた状況が皆それぞれ異なる世界中の共産主義運動を、1つの教義や解釈で束ねようというのだから、どうしたって個別の運動方針ではさまざまな矛盾や無理が出てくる。本社と現場の見解の対立は避けられない。
本社の意向なり方針なりと、国情に応じたその実践との妥協をどう求めるかという、現在のグローバル企業が日々悩まされるこの問題を、共産主義は100年近くも前から経験していたことになる。
発展途上国(当時の理解では、帝国主義者により植民地化・半植民地化された国々)の共産党の中からは、今すぐにでもロシアと同じような革命が可能だ、あるいはそれを起こすべきだ、といった主張が始まった。
これにはロシアを筆頭とするヨーロッパの共産主義者も、はたと回答に詰まってしまう。K・マルクスの聖典には、途上国が一挙に共産主義社会へ跳躍するようなシナリオなど描かれていなかったからだ。