この連載をずっと読んで下さっている皆さんには半ば自明と思いますが、大学レベル以上の教育や研究・人材育成で、私はギャップイヤーのような人間不在の新制度設計から何か意味ある成果が出てくると期待する方がおかしいと思うわけです。
そんな一般性のある方法があるのなら、すぐにでも実行すればよいと思いますが、正直なところそういうものはない、あり得ないという確信をむしろ強く持っているので、その観点からのお話にならざるを得ません。
では、大学なり研究教育機関なりは、いったいどうすればいいのか?
私の答えは簡潔かつ明確、「人間不在」ではなく「人間有在」に尽きると思うわけです。
「人間有在」の専門人育成
大学というのはシステムで動く面もありますが、結局先生がいて学生がいる。そのときそこにいる先生でしか教えられないことを教え、そこにいる学生が伸びる、というのが、実はあり得る唯一の形です。
なんでそんな当たり前のことを言うかといえば、「教材の標準化」とか「カリキュラムの一元化」とか、この15~20年ほど大学で見てきた「改革」のほとんどすべてが「個別の人間が不在でもできるように」というシステム化、没個性化と思うからです。
そういう改革に意味があるかどうかは知りません。私はそういうものに興味がない。というのは、何か面白いこと、特記すべき成果が上がるとは到底思えないからです。
ではどうすればいいか?
という問いにはいろいろな答えがあると思いますが、とりわけここでは、今月はノーベル賞が出た月でもありますので、トップエンドの人材育成、ノーベル賞を10個獲る方法、みたいなことに特化してお話ししてみたいと思います。
ノーベル賞を獲るのは、ある意味簡単なことかもしれません。というのも、あれは毎年出ますから、100年に1度の珍現象をキャッチするようなリスクがなく、一定以上予測のつく仕事で、確実に毎年、6分野で十数個、獲れることが分かっているわけですから。
ではノーベル賞をどうやって獲るか。そういう人材をどう育てるか。「人間有在」の人材育成を考えるなら「指導者」と「指導されるべき人材」双方を選ぶ、あるいは選び合う、というところからスタートするのが適切でしょう。
ノーベル賞を獲るには、ノーベル賞モノの優れた研究をすればよい。ではどうやってノーベル賞モノの優れた研究をするかというと、優れた問題を選ぶことが第一です。