現在では、教育改革失敗の典型例のように言われる「ゆとり」ですが、これに取り組んだ当初、担当者たちは何も失敗しようとして、改革を始めたわけではもちろんなかったはずです。
しかし、結果はどうであったか。
以前ツイッター上で私が「大学の9月始業、ギャップイヤー云々は大学教育の『ゆとり』化」といったコメントをしたところ、ギャップを推進したいらしい若者から『ゆとり』とは侮辱だ、あまりにひどすぎる、という意味合いのリアクションをもらいました。
真面目に授業に出るようになった学生たち
いまや、若者にとっては「ゆとり」とは「侮辱」なのか、と、少しびっくりしたものでした。
教育現場に携わる人なら、立場はそれぞれ違っても、誰もが、いまの教育が完全無欠だとは思わないでしょう。改善すべき幾多の問題がある。しかし、何をどう改善していけばいいのか、先行きが見えない。
さらには、役人的なことなかれ主義、いじめその他の隠蔽なども、珍しいことではないのかもしれない・・・前途は多難です。
私も何だかんだで東京大学に着任して13年、干支がひと回りしてしまいましたが、学生の質に微妙な変化があるのは感じます。
そもそも、学生が授業に出てくるようになった・・・まあ私は、かつて教養学部で「必修情報処理」を持っていた頃は、出席点を加点して皆勤前提でカリキュラムを進めていた教官でもありますが・・・。
それにしてもきょうびの学生は本当にきちんと授業に出てくるんですね。「良い子」が多い。こんなことは正直、かつての私自身を含め考えられなかったことです。
大学の講義などというものは、まあ、学期の最初と最後にちょっと出ておけばなんとかなり、その代わり試験では相手をうならせるような答案を書いて優を頂いていくのがエレガント・・・それくらいに自分自身、考えていました。
が、この頃の学生はぜんぜん違う。きちーんと出てくる。ノートもきれいに取る。ただし、融通が利かない。
応用力を問うような問題には、地頭のいい子はそれなりに、そうでない子は大半が白紙で解答が返ってくる。こんなことではこの先、日本は一体どうなっていくのだろう・・・。
少し学生に冒険させなきゃだめだよ、という「ギャップ」だ何だの意見が出てくる動機は、少なくとも大学現場では、私自身も10年以上見てきていますので、分からないわけではありません。
でもこれって、まさにかつて「ゆとり」を、有馬朗人・寺脇研コンビが導入した際の動機とほとんど同じでもあるわけです。こちらは義務教育でしたから、影響はさらに広範でした。