中央自動車道・笹子トンネルの天井板崩落事故は、日本のインフラ設備の老朽化と危険性を露わにした。いま求められているのは、“日本列島総点検”である。
日本でこの事故が起き、中国社会もわが身を振り返らざるを得なくなった。中国には、日本が行ったことをなぞるようにして、すべての資金と労力をインフラ建設に注いだ時代がある。その“崩落”がすでにあちこちで発生しているからだ。
国家主導の国土計画がもたらした負の遺産
日本がインフラ建設に邁進したのは1960~70年代だ。笹子トンネルが開通したのが77年。73年にオイルショックが起き、高度経済成長期に一区切りがついていた時代とはいえ、社会資本整備への熱は冷めることがなかった。
「一全総」という名称を記憶されている方も多いだろうと思う。1960年に池田勇人内閣が打ち出した「所得倍増計画」「太平洋ベルト地帯構想」を実現するための手段として62年に打ち出された「第1次全国総合開発計画」の略称である。社会資本を充実させ、産業構造を高度化させようというのがこの時期の日本の国土政策であり、50年に制定された国土総合開発法に基づいて策定されたのが全国総合開発計画だった。
このときすでに、日本は高度経済成長期に入っており、地価は55年から70年にかけて15倍に上昇していた。また日本のGNP(国民総生産)は67年にドイツを抜いて世界第2位の座にまでのし上がった。
この時代の日本の国土計画は、主として「一極集中」を排除して都市と地方の地域格差をなくし、人口の均衡を図ることを目指していた。
具体的には、京浜、阪神、名古屋、北九州に過密した工業を、その他の地方都市(新産業都市)に分散化させることを試みた。だが、結果的に全国で公害問題を生むことにもなった。また、肝心の一極集中も、解決どころかかえって大都市への人口集中を生み、それ以外の地域の過疎化を進行させることにもつながった。鳴り物入りでスタートした国家主導の国土計画は、結果として負の遺産をもたらしてしまう。
続く「二全総(第2次全国総合開発計画)」は、69年からスタートする。72年に田中角栄首相がぶち上げた「日本列島改造論」とともに、新幹線、高速道路、空港、通信網の整備と大規模工業地の立地に力が注がれた。だが、日本各地で工業用地の買収が進むと地価の高騰を引き起こし、地価高騰のピーク(62年)を迎えることになる。
60年代前半は土地バブルが工業用地の高騰から起こったが、60年代後半は宅地の地価上昇が顕著になった。全国的に都市化が始まり、そこに地方の人口が流入し、住宅需要を逼迫させた。