米国大使館人質事件から33年、11月2日、イラン各地で大規模な反米デモがあった。

 その一方で、10月3日には、マフムード・アフマディネジャド政権に抗議するデモ隊と治安部隊が衝突している。核開発疑惑尽きないイランに対する経済制裁は強化されるばかり、いまや通貨リアルの暴落や物価高など社会不安が広がっているのだ。

イランの米大使館人質事件

イランの首都テヘランの顔アーザーディー・タワー

 そんな中、大使館人質事件を描いた米国映画が世界中で公開されている。日本では「CIA史上、最もあり得ない救出作戦 それはニセ映画作戦だった」と宣伝されている『アルゴ』(2012)である。

 映画でも、冒頭、事件に至る経緯が簡単に語られているので、ここでも軽く(とはいえ、もう少し細かく)おさらいしておこう。

 1951年、イランでは、民族主義的なモハンマド・モサデクが首相に選出され、英国にいいように支配されてきた石油利権の国有化に成功した。

 ところが、1953年、CIAがMI6と共謀してクーデターを起こし、モサデク政権は崩壊。事実上亡命状態にあったパーレビ国王が復権し、以後米国の強力なバックアップの下、上からの改革で経済成長を目指す開発独裁を進めていく。

 しかし、大胆かつ急速な近代化、すなわち西洋化を進めたことで、保守層は激怒。秘密警察SAVAKにより権威主義体制を強化したことも住民を苦しめ、広がり続ける格差のなか、左翼とイスラム主義者による反体制運動が激化することになる。

 そんな1979年1月、パーレビはイランの地から逃げ去り、米国への入国を希望する。時の大統領ジミー・カーターは、予測され得る対立を思い、入国を回避しようとするも、ヘンリー・キッシンジャーなどの働きかけもあり、ガンを患うパーレビへの「人道的見地」による入国をしぶしぶ認めたと言われている。

 そして、亡命していた宗教指導者ホメイニ師が入れ替わるように2月に15年ぶりに帰国しイスラム革命が成立、11月4日、米国大使館にパーレビの引き渡しを要求する国民が大挙押し寄せ、52人の外交官や海兵隊員などを人質としたのであった。

 こうして、ペルシャ湾における米国の重要な親米国家イラン、米国とイランとの特別な関係は消え去ったのである。

 ここまではよく知られた話だが、これにはちょっとした秘話もある。