これは特定の大学に限ったことでなく、フレッシュマンの就職全体に言えることと思うのですが、キャリアプランには栄枯盛衰、もっと露骨に言えば「流行り」があります。
まあ、当たり前の話で、例えば「糸偏景気だ」といえば糸偏職種の志望者が増え、「証券がいい」となればそちらに「優秀な」人が流れる。そこでの「競争」があり、「勝ち残った」人がその職種に進む・・・というようなことが、近代以降の日本、少なくとも戦後六十数年に関しては、一貫して続いてきたと思います。
先ほど、本稿の準備で前々回、前回などのこの連載を見直して「相変わらず何を言いたいのか、誰に書いているのか不明」とツイートしている書き込みを見ました。あれあれ、まあ仕方ないけれど、まあそういうものかと思いましたので付記しておきます。
何かを理解できない、ということそれ自体は罪ではありません。しかし、理解できないということは決して褒められることではなく、むしろ様々なチャンスを人生の中で失うことの方が多い、という基本的な事実は押さえておいてよいポイントです。
いまこのシリーズで問題にしているのは、日本の人材育成であること、なかでもとりわけ「インセンティブ」にまつわる経験学習、パブロフの犬のような形で、例えば間違った条件反射に味を占めてしまうと、その後使い物にならない子供大人を量産してしまいかねないという日本にとってとても重要なテーマです。
大学で教え始めて十数年、毎年卒業していくOBやOGを見ながら深くため息をつく部分について、具体的に例示しながらお話ししているのは、お分かりの皆さんにはすべて、よく読み取っていただいている通りです。
この問題の入門編的な部分はすでに『バカと東大は使いよう』(朝日新書)に詳述していますので、分かり難いと思われ、かつ、でも気になるという方がおられましたら、どうぞこちらをご参照いただければと思います。
ここではもう少し踏み込んだ話題、とりわけそのような形で、実は「疎外」されてしまった個人を含め、「幸せ」というデリケートなことまで含めて考えてみたいと思うのです。
ジェネラリストか? スペシャリストか?
繰り返し、東京大学に限らず多くの大学卒業を控えた若い人が就職に当たって様々な職種を吟味し、いったいどういう仕事に就こうかと考え、あるいは迷い、逡巡する、これは当たり前と思います。
こうした問題を考えるうえで、自分がより多くのケースを知っている勤務校から例を引く都合上、どうしても東大生の話が多くなってしまうのですが、東大の場合とりわけどうしても「目移りしやすくなってしまう」構造的要因があるように私は感じています。
この「要因」は「ジェネラリスト」の業務と一定の関わりがあります。