ニッケイ新聞 2012年4月4日、5日

 私達が住む「ブラジル」が現在のような多文化が入りまじった形になったのは、どのような経緯からか。移民はその文化形成にどんな役割を果たしているのか。そして、ブラジル文化は世界にどのような影響を与えているのか。

 座談会はこれらをテーマにして、ブラジル文化に詳しい岸和田仁(ひとし)さん、ポルトガルに駐在歴のある小林雅彦さん、モザンビークに3年いた中山雄亮さんの3人に参加してもらい、深沢正雪編集長が司会をして1月31日にニッケイ新聞社内で行なわれた。

 ポルトガルのポ語との違いについての興味深い指摘から、イタリア移民が及ぼした食やノベーラへの影響、さらにアフリカのポルトガル語圏諸国の文化についてまで縦横無尽に話題は展開した。ここでは各人の役職とはいっさい関係なく、個人的な意見や体験、思いをざっくばらんに語ってもらった。(編集部)

第10回 「ラテン系アフリカ人」とは

岸和田 サンパウロもそうだし、あと有名なのは「コロニア・セシリア」っていう要するにアナキスト共産村を作ろうとした。

深沢 そんなのがあるんですか。

岸和田 パラナ州パルメイラ近郊に。ちょうど帝政が終る頃ですから、1889年。約200名のアナキストたちが入ってきて、それで無政府共産村を開墾するが、10年も持たずにつぶれてしまうのですが。

 そこに入った人達がかなりサンパウロに流れて、その子供や孫がコミュニストになって行ったんですね。例えば作家ジョルジ・アマードの奥さん、ゼリア・ガタイ(Zelia Gattai)の爺さんは、そのコロニア・セシリアの出身ですよ。

深沢 ジョルジ・アマードの奥さんが! イタリアで過激な労働組合運動をやってた人がブラジルに逃げてきて、ブラジルでも左翼運動を一生懸命やって、マタラーゾの工場で働いてストライキでばんばんやったりしたという話がありましたが、きっとそのときに、スト破りで日本移民が工場に連れてこられたりとかあったんでしょうね。

岸和田 多分それあった。コーヒー農園なんかそうですよね。「イタリア人より日本人の方がよく働くから」って。

深沢 日本人は来たばっかりで事情もよく分らないだろうって。きっとあったんでしょうね。

 北米の日本移民の歴史を見てみると、イタリアにとってのブラジルと似ていますよね。明治時代に日本国内で民権運動やってた青年達が、政府から弾圧されて国内にいられなくなって米国西海岸に逃れて、1887年にオークランドでは自由民権派の新聞『新日本』を創刊した。

 そこで発行して日本に送って、日本で発禁処分されたりした。ああいうのは北米ではあった。

 第一次大戦前の北米の同胞社会の邦字紙で北米の体験的知識を叩きこんだ記者には、のちに日本のメディアで活躍したものも多かったですよね。

 例えばワシントンから外交関係の記事を毎日新聞に寄稿した河上清、大正から昭和にかけて朝日新聞外報部長として国際評論を書いた米田実とか。

 ロシア革命を成功させたロシア共産党幹部5人に名をつらねた片山潜も亡命中サンフランシスコで邦字紙の釜のメシを食っていたんですよね。そこからレニングラードに直行して革命に参加したと読んだことがあります。

岸和田 幸徳秋水だって一時期アメリカにいましたからね。