だからチャイコフスキーはロシアの音楽の歴史の中で、自我の宇宙を無限に拡大しながらも、自分の足元に関してはほとんど意識することがなかった稀有な存在と言えるでしょうね。その意味で、ロシアという枠組みの中でチャイコフスキーは飛び抜けて異端だった。
──チャイコフスキーの旋律は異常に美しいですよね。美しさが過剰と言いますか。
亀山 そうですよね。それは、チャイコフスキーが「人工的」な天才だから。言ってはなんだけど、あの旋律の美しさは人工甘味料のような美しさでもあるわけです。作られているんですよ。
あの美しさを、子供ならばすんなり受け入れられます。でも、自立した大人はなかなか受け入れられない。だから「苦手だ」っていう人は多いですよね。ある種、押しつけるような感じがね。
ただし、美しいものを作ろうという過剰な自意識が消えた時に生まれてくる音楽というのもあるわけです。晩年になると、淡々とした中に重りの取れた美しさがあるというか。その音楽は「異常に美しい」というものじゃなくて「神がかって美しい」とでも言うべきでしょうね。
──ヨーロッパから見るとロシアが辺境の地だから、チャイコフスキーは異常に美しい音楽を作ったという面はありませんか。辺境の地は、外から受け入れた文化を過剰に増幅させますよね。
亀山 それは当たっているでしょうね。チャイコフスキーは要するに「田舎の人」であり、ヨーロッパを強く意識していた。後期ロマン主義の時代のヨーロッパに対して、これこそがロシアなんだと、激しい対抗心を燃やし、「過剰」な音楽を作ったんですね。また、ヨーロッパの側もチャイコフスキーには過剰な身振りを求めたわけですよ。自分たちにはできないものを。
シルヴェストロフの「交響曲第5番」をぜひ聞いてほしい
──本書では、日本であまり知られていないロシアの現代音楽も取り上げて紹介しています。
亀山 ヨーロッパの現代音楽は実験的な方向に突き進んでいったけど、ロシアではモダニズムを一貫して否定するというか、「そんなきれいごとで音楽が進むわけはない」「世界には血が流れているのに音楽だけ純粋無垢というわけにはいかない」というような、ヒューマニスティックな音楽が書かれていきました。