AsiaX(アジアエックス) Vol.206(2012年02月20日発行)より

 生まれも育ちもシンガポールながら、ジェンセン、デ・シルビア、フィリップスといった欧米の名字を持つシンガポール人に出会う事が時々あります。アジアの風貌と共に、その顔立ちや肌の色にどこかエキゾチックな印象を持つ彼らは、中華系、マレー系、インド系についで、シンガポールを構成する4番目の人種、ユーラシアンと呼ばれる人々です。現在、シンガポールには7万~8万人のユーラシアンが暮らしています。

ユーラシアンの先祖と歴史

ユーラシアンの伝統的な婚礼の様子。90%以上のユーラシアンはカトリック信者なので、それに準じている。(写真提供:Valerie Scully)

 ユーラシアンとは、ヨーロッパからの白人とアジアの現地女性が結婚した家族の子孫で、その歴史は、15世紀ヨーロッパの大航海時代まで遡り、香辛料の東西貿易で栄えたアジア各地にいます。

 シンガポールのユーラシアンは、マラッカに多くの祖先を持ちます。マラッカは、1511年ポルトガルに征服され、東西貿易の重要な中継港となり、その後、17世紀にオランダが征服、19世紀にはイギリスの支配下に置かれました。

 当時、ポルトガル人などの入植者達と現地の女性との結婚が奨励されたことで、ユーラシアンの人口は急速に増えました。

 オランダ時代にポルトガルの支配層はマラッカを去りましたが、政治、経済、宗教の場面で重用されていたポルトガル語はそのまま使われ、その文化も丸ごとユーラシアンの人々を介して後世へ引き継がれました。

2005年完成のユーラシアン会館入り口にて。ユーラシアン協会の運営委員、伝統文化委員長を務めるバートン・ウエスタラウトさん(左)は、オランダに祖先を持ち、教育部のジャクリーン・アン・ペリスさん(右)はイギリス人とインド人の血を引く。背後のタイルは、会館設立時にポルトガル大使館から寄贈され、15世紀のリスボン港の様子が描かれている。

 クリスタン(Kristang)と呼ばれる彼ら独特の言語は、マレー語の文法に近く、ポルトガル語の語彙に由来するとされ、少数派ながら、現在もコミュニティの間で話されています。

 「西洋的発想で、伝統的にユーラシアンの子供達は男女問わず皆学校へ行き、支配国の言語、つまりポルトガル語や英語を学びました。そのことが歴史上ユーラシアンの地位を確かなものにしました」と語るのは、ユーラシアン協会のバートン・ウェスタラウトさん。

 植民地政府で公務員を務め、ビジネスにも携わった彼らの多くは、イギリスがシンガポールでの権利を手に入れた1819年以降、シンガポールへ移住しました。カンポンジャワロードからレースコースロードまでのエリアを指したリトルイングランド、教会や学校の多かったブラスバサーロード周辺、植民地政府公務員用の住宅が多くあったブキティマロード沿いに戦前まで暮らしていました。