本来のトヨタ生産方式を説くために始めたこのコラム「本流トヨタ方式」は、現在「自働化」の話に入っています。
先々回は、「自働化」の原点とも言える「G型自動織機」と豊田佐吉翁が苦心した「自働化」のカラクリを写真と動画で説明しました。
先回は、「自働化」の持つたくさんの意味の中から「人の仕事と機械の仕事の分離」について、フォードのコンベア方式の発明に並ぶ大発明だと説明しました。
今回は、豊田紡織からトヨタ自動車に移籍した大野耐一氏が、配属された機械部で「人の仕事と機械の仕事の分離」に取り組んだ様子をお話しします。
大野氏が見た「自働化」されていない現場
ちょうど100年前に生まれた大野耐一氏は1932年豊田紡織に入社しました。
1924年に発表された豊田佐吉翁の「G型自動織機」は量産され世界各地で活躍したといいます。豊田系の紡織機のモニターも兼ねていた当時の豊田紡織の工場では、この「G型自動織機」が稼働しており、1人の女工さんが40台余りの織機を操っていたことでしょう。
この工場現場で大野耐一氏は、「自働化」すなわち「人の仕事と機械の仕事の分離」の実態をしっかり勉強したのでした。
1943年、豊田紡織がトヨタに吸収合併されるのに伴い、大野氏はトヨタへ移籍することになります。これは大野氏にとって運命的とも言える出来事でした。
トヨタに来て機械工場で目の当たりにしたのは、トヨタ紡織での「自働化」、すなわち「人の仕事と機械の仕事の分離」とは全くかけ離れた世界であったことだといいます。
機械工場の職工たちは「オレ専用の工作機械」と言って他人には一切触らせず、他の職工と腕を競い合いながら、マイペースで生産している状況だったのでした。
移籍当時は戦争中で、工場は軍の統制下でしたし、移籍してきた紡織屋の技術屋に自動車生産の何が分かるか、といった雰囲気があり、何もできなかったようです。
戦争が終わり、自動車工場として稼働し始めた1947年から、大野耐一氏は機械部長として「人の仕事と機械の仕事の分離」に取り組み始め、豊田紡織でやっていたような「多台持ち」に向けて改革を始め、後には「多工程持ち」へと発展させていくのでした。