戦争が終わり、自動車工場として稼働し始めた1947年から、大野耐一氏は機械部長として「人の仕事と機械の仕事の分離」に取り組み始め、豊田紡織でやっていたような「多台持ち」に向けて改革を始め、後には「多工程持ち」へと発展させていくのでした。