2010年4月23日、自民党に離党届を出した前厚生労働相・舛添要一が新党を旗揚げした。メンバーは参院議員6人。民主党政権打倒が目標という。舛添らが改革クラブに入党した上で、党名を「新党改革」に変更し、政党交付金を継続して受け取れるようにした。郵政民営化推進の舛添に対し、メンバーの荒井広幸は民営化反対の急先鋒だった。これでは、「参院選とカネ目当ての大義なき野合」と謗られても仕方あるまい。世論調査で次期首相候補ナンバーワンの人気を誇った舛添だが、所詮はこの程度の政治家だった。(敬称略)

自民党を離党、新党改革を結成した舛添要一前厚労相

 舛添は「ポスト谷垣禎一」の自民党総裁狙いと新党結成の両睨みで、「新党なのか自民党総裁なのかどうでもいい。全ての可能性を模索している」と繰り返してきた。

 当初、将来の「舛添新党」または自民党総裁選の基盤になると見られたのが、舛添自ら会長として2010年2月17日に自民党内に立ち上げた「経済戦略研究会」。元総務相・菅義偉や元官房長官・塩崎恭久、参院議員・世耕弘成らが発起人となり、初会合には約30人が集まった。

 会合では、小泉政権以来の構造改革を推進し、鳩山政権の進める郵政民営化見直しには反対する方針が確認された。谷垣執行部に批判的な面々が集まり、舛添はいわば党内の「構造改革派」のトップに座ったのだが、新党結成をめぐる思惑はそれぞれバラバラだった。

執行部批判で孤立、新党ちらつかせて「オオカミ中年」

 「谷垣執行部で参院選に臨んでも自民党は勝てない」――。自民党の体制一新を求め、執行部批判をエスカレートさせる舛添は次第に党内で孤立した。新党結成を何度もちらつかせ、「オオカミ中年」とまで揶揄された。

 兎角、「出る杭」は打たれる。それを跳ね返す実力と人望とカネと運がなければ、子分は付いてこないし、政界を泳ぎ切ることはできない。しかし舛添には、身も心も捧げて尽くすような子分は見当たらない。本人がつくってこなかったのだ。

 なぜ舛添はこの局面で新党結成に踏み切らざるを得なかったのか。党名保護のための届け出のタイムリミットが5月2日に迫っていたという事情もあるが、実際には自民党執行部から離党勧告の処分を迫られる可能性が出てきたからだ。舛添に対する党内の批判が強まり追い詰められると、プライドの高い舛添は党執行部から処分を受けるより、先に自ら離党する道を選んだのだ。