文楽の人気演目の1つ、近松門左衛門の「曽根崎心中」のラストシーンはとてもエロチックだ。

 醤油屋の手代・徳兵衛と遊女・お初は「この世で結ばれるのは困難」と悟り、心中を決意する。離れ離れにならないようにと、お初は布を裂いて2人を結ぶための紐を作っていて、剃刀の刃で指先を切ってしまう。「あっ」と声をあげるお初の手を愛おしげにとり、「大丈夫か」とその指を口に含む徳兵衛。これから、心臓を刺し、のどをかき切って自害しようとしているその時に、指の小さな傷に心を痛める姿は、滑稽なほどに切ない。

 江戸時代は来世思想が強く、お初と徳兵衛も「あの世で幸せになれる」と信じての死の道行を決意している。それでもなお、生きたいという人間の本能、現世への執着を感じさせるから、この場面は美しく、心に残る。

天国旅行
三浦 しをん、新潮社、1470円

 三浦しをん『天国旅行』は、「心中」を共通テーマとした7つの短編の連作集だ。タイトルは、2004年に解散したロックバンド ザ・イエロー・モンキーの楽曲(アルバムSICKSに収録)からとったそうだが、文楽好きの著者が、文楽からもインスピレーションを受けて書いた作品のように思えた。

 人生に絶望し、死に場所を求めて富士の樹海をさまよう男。一家心中で両親と弟を失い、1人だけ生き残ってしまった男の屈折した感情。高校の校庭で焼身自殺した先輩の死の真相を探る2人の少女の駆け引き。描かれている物語は、決して、明るいものではない。

 それでも、この作品は、決して死を礼賛しているわけでもなければ、美化しているわけでもない。登場人物が向き合う「死」の裏側には、どうしようもないほどの「生」への執着がにじんでいる。

 その「生」の原動力は必ずしも美しいものではなく、憎しみであったり、復讐心であったりする。それでも、生きようとする人間の逞しさ、しぶとさが、この短編集の裏テーマなのではないか。

 景気低迷、就職難、子どもの虐待、老後の不安・・・新聞には気の滅入るようなニュースが溢れている。駅のホームでは人身事故による電車の遅れに遭遇することも珍しくない。自分自身が死のうという気持ちはなくとも、今の世の中で、「心中」は、それほど非現実的ではない出来事なのかもしれない。

 だからこそ、その裏側にある「生」を意識させてくれる物語が心に響く。