2回続けてお題を拝借するのは甚だ恐縮だけれど、今回も文芸春秋SPECIAL季刊春号「結婚という旅」の中からスペシャル・エッセイ「忘れられないあのひと言」に便乗させてもらい、われわれ夫婦のその後について書いてみようと思う。
前回は、髪の毛をモヒカン刈りにした妻が全国縦断の旅芝居に出発し、彼女のあまりに理不尽な振る舞いに発奮して、私が大宮にある屠畜場の門を叩くところまでだった。
お読みでない方は、前回(「衝撃的な妻の姿、そして失職」)を参照してください。
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結婚2年目の妻が、4カ月もの間、夫をおいて旅に出る。
そう聞いて大方の人が想像するのは夫の浮気ではないかと思う、と書くのは当年45歳の私である。
20年前、25歳だった私の頭に、「浮気」の2字はかけらも浮かばなかった。
4カ月にわたる全国縦断公演を意気揚揚と続ける妻とは裏腹に、思いも寄らぬかたちで失職し、これから先の人生をどうすべきか悩みに悩んでいた私に、妻以外の女性に色目を使う余裕などあるはずもない。
編集の職を失った私はなにより生活費を稼がなければならず、私は毎朝始発電車に乗って常磐線・南千住駅に向かい、山谷から日雇い仕事に出た。ビルの解体、鳶職人の手元、道路工事、水道管の埋設などなど。1990年当時、建設関係の仕事はまだ豊富にあって、素人同然の若者でも引く手あまただった。
そのうちに水道管工事の親方に目をかけられて、私はそこの専属として働くようになった。賃金は1日1万2000円プラス交通費だったと思う。
一見するとかなりの好条件だが、土日祝日に加えて雨の日も休みとなると月に20日働けるかどうか。作業着代もバカにならないし、なによりくたびれる。
そうはいっても現金で1万2000円プラスアルファをもらうのは気分もよく、ついつい散財をしてしまいそうだが、私はどこにも立ち寄らずに浦和のアパートに帰っていた。その理由はといえば、私が「飲む・打つ・買う」のいずれにもたしなみがなかったからだ。
前回述べたとおり、大学卒業と同時に結婚したため、私には社会人になってからの独身時代が一日もなかった。
また学生寮で暮らす貧乏学生で、男同士のつき合いは得意でも女性相手はからっきしだった。