本屋をブラブラしていて、「運命の出合い」をすることがある。目的の本が無くても、書架の間を歩き、平積みになった本のタイトルを眺めていると、読むべき本が目に飛び込んでくる(ような気がする)のだ。(文中敬称略)
2年前に『仏果を得ず』に出合った時が、まさに、そうだった。
しかし、立ち止まってはみたものの、漫画のキャラクターを並べたような子どもじみた表紙に浪漫明朝体の乙女チックなタイトルロゴは私の趣味には合わない。一旦は、やり過ごして別の本を手に取って眺めたりしていたが、なぜか、どうしても気になる。「表紙の着物姿のお兄ちゃんは、一体、何者?」「仏果を得ず──とはどういう意味なんだろう?」という好奇心から免れず、運命に従って、レジに並んだ。
家に帰って、ページを開くと、そこには、未知の世界が広がっていた。
主人公は、文楽の若手大夫「健大夫(たけるだゆう)」。文楽は、江戸時代に人形芝居と三味線と浄瑠璃が結びついて誕生した人形劇。大夫とは、無声映画の活弁士のように、ト書きから登場人物全員のセリフまでを一手に引き受けて浄瑠璃に乗せて語るナビゲーター役だ。
同じ伝統芸能でも、大名跡を親子代々引き継ぎファミリービジネスの色彩の濃い歌舞伎と異なり、文楽は実力主義の世界だ。名人の息子でも実力が無ければ父親の名を襲名することは適わず、研修生として入門しても、力があればスターになれる。主人公の健大夫も、高校の授業の一環として文楽鑑賞教室に参加したのがきっかけで、文楽の世界に飛び込むことになった1人。
そもそも、伝統芸能になど微塵の興味もなかった私にとって、普通の若者が、自ら、苔の生えたような世界に入門するということが意外だった。
もちろん、修業の道は厳しい。文楽の世界では40歳、50歳でも若手・中堅。大夫ならば、60歳を過ぎて(もちろん、実力があれば)ようやく、クライマックスシーンを語る「切り場語り」という地位に就ける。30歳そこそこの健大夫は、まだ、小僧同然の扱いである。
そんな健大夫が思わぬ大役を与えられ、もだえ苦しむ。芸人同士が切磋琢磨するといった、きれいごとばかりではない。妬み・嫉みもあれば、気が合う・合わないもある。そうした感情を乗り越えて、観客を感動させる舞台をつくっていかなければならない。もちろん、生身の人間ゆえに、私生活でも好いた・好かれたと心穏やかではいられぬ出来事が次々と起こる。そんな、健大夫の人としての成長が、芸の成長にも繋がっていく様が、生き生きと描かれている。