明治末の「大逆事件」で処刑された社会主義者、幸徳秋水(本名・伝次郎)の評論に「自由党を祭る文」と題する一文がある。その冒頭は「嗚呼自由党死す矣、而して其光栄ある歴史は全く抹殺されぬ」で始まる。総選挙での自民党は、この文章の自由党という語を、「自民党」に置き換えたいほどの惨敗だった。
「自由党を祭る文」は明治33年(1900年)8月30日、当時の新聞「万朝報」紙上に掲載された。この翌月に伊藤博文(初代の総理大臣)が立憲政友会を創立しており、その直前の稿。論旨は、二十余年前の明治10年代には、旧自由党は民権運動の旗手として、「自由平等」「文明進歩」のため闘った。
然るに今や、党主流は挙げて、専制政治の張本人、仇敵伊藤の政友会に馳せ参じようとしているが、これは自由党の死であり、自由の死だ。ここに漢詩の一句を捧げ、党の霊を弔うものだと結んでいる。原稿3枚余の内容だが、懐旧の情と、堕落した民権家たちを嘆く思いが込められ、秋水一代の名文といわれる。
責任の所在を明確にせよ
敗軍の将は兵を語らずというが、自民党が歴史的な大敗を喫しながら、なお真摯に反省しようとしないならば、祭る文ならぬ弾劾状を突きつけねばならない。責任は党議員の全員にあるなどとあいまいのままにするならば、だれのための党なのかを、厳しく問い直さねばならないのである。
即ち、党再生の第一歩は、責任の所在を明らかにすることであり、あえて “戦犯” を挙げ、「鞭打つの文」を呈するのである。
先ずは小泉純一郎元首相。予言通り党をぶっ壊してくれた。郵政を争具に構造改革を強行したが、深刻な格差社会を生み、民主党の「生活防衛」マニフェストに足をすくわれた。そのうえ世襲が問題となるなか、次男の選挙に奔走する親バカぶりが反感を買った。