前回(「大手メーカーの特許戦略はぬる過ぎる」)、特許の権利行使だけで利益を上げている企業について紹介した。その際、筆者は「日立をはじめとする日本半導体メーカーの特許戦略がいかに低レベルだったかを痛切に感じた」と記した。

 その一方で、「筆者が在籍した日立中央研究所の特許部は、一時期、ロイヤルティ収入が500億円を超え、テレビや新聞などマスコミに取り上げられ一世を風靡した」とも書いた。

 この2つの記述は矛盾しているのではないか、とお気づきになった方はおられただろうか(ツイッターなどの書き込みを見る限り、気づいた方はいなかったようだが)。

 今回は、この2つの記述は矛盾していないことをお話ししたい。つまり、「ロイヤルティ収入が500億円」あろうとも、それは全くの「お笑い草」(失態?)だったのである。

1987年にピークアウトするDRAMシェアと特許出願数

図1 半導体大手5社の特許出願数(単位:1000件)

 かつて、大手半導体メーカー5社の日立製作所、東芝、NEC、富士通、三菱電機を、ビッグ5と呼んだ。図1は、ビッグ5の特許出願数合計の推移である。5社ともほとんど同じ傾向を示していたので、5社合計の特許出願数をプロットした。1987年にピークがあり、その後5年間に特許出願数が激減する。

 図2は、国籍別DRAMのシェアの推移である。特許出願数と同じく、日本のシェアは87年にピークがあり、その後、低下していく。特許出願数とDRAMシェアの傾向が、非常によく似ていることに驚く。

図2 DRAMの国別シェア

 87年は、筆者が日立に入社した年でもある。本連載の最初に書いた通り、その後、筆者は、DRAMのシェア低下とリンクした技術者人生を送るわけであり、改めて「1987年」が因縁めいた年であると感じた。

 図3は、日立の特許料の収支である。83年までは赤字であったが、その後、黒字に転じる。そして、2000年前後には、500億円を超える収入を記録する。「日立中央研究所の特許部がマスコミに取り上げられ一世を風靡した」のはこの頃のことである。

図3 日立の特許収入と支出(単位:億円)

 DRAMシェアと特許出願数を急激に伸ばしていた日本が、87年にピークアウトする。一体、87年に、何が起きたのか?

 実はこの年に、2つの事件が同時に起きた。ビッグ5の特許出願数が激減するのはそのためである。その詳細を以下に示そう。