日本人にとって最も親しみ深い魚の1つといえば鰻(ウナギ)ではないだろうか。食べれば美味な上に栄養満点。その姿を見れば、にょろにょろとどこか愛くるしい。

 だがその反面、ウナギの生態は長らく謎に包まれたままだった。川を下ったウナギは、大海原のどこで次の世代を誕生させているのか。ウナギとは、近くて遠い魚なのだ。

 そんなウナギの回遊の謎を追いつづけてきたのが、東京大学大気海洋研究所教授の塚本勝巳教授。2011年2月の、塚本教授らの快挙を伝えた「ウナギの卵ついに発見」というニュースは、まだ記憶に新しい。

 前篇では、まず、鰻の食文化の歴史をたどってみる。さらには、ウナギの故郷といえる産卵場の謎を突き止めるため、塚本教授がとった科学的推理と仮説の数々を紹介したい。

 万葉の時代、鰻はすでに滋養強壮の源として人びとに認識されていた。万葉集を編んだ大伴家持(717~785)は、鰻にちなんだ次の句を詠んでいる。石麻呂という痩せの知人をからかってつくった歌だ。

「石麻呂に 吾れもの申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻とりめせ」
(石麻呂よ、夏やせによいという鰻をとって食べなされ)

 大食漢にもかかわらず顔がこけていた石麻呂に、家持は「夏やせによし」と、鰻を食べることをすすめている。当時から鰻はすでに滋養に長けた魚として知られていたようだ。ちなみに家持は「オチ」となる次の句も詠んでいる。

「痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻をとると 川に流るな」
(痩せに痩せても生きていればよいのだから、鰻をとるからといって川に流されなさんな)

 その後、今では主流の食べ方となっている「鰻の蒲焼」が文献に登場したのは室町時代の1399(応永6)年。京都吉田神社の神職である鈴鹿家の記録『鈴鹿家記』に、「蒲焼」の記述が登場する。鰻を筒切りのうえ串刺しにした形が「蒲(がま)の穂」に似ていたことからこう呼ばれたらしい。