44歳にもなってカマトトぶるつもりは毛頭ないのだけれど、私は「流産」や「中絶」といった用語が大変苦手である。

 一昔前の文芸評論には、「作者の意図は雄大だが、作品は必然的に流産を運命づけられていた」というような表現がごく普通に使われて、私はその度に戸惑ってしまう。

 そうした「気弱な」性質には、家庭環境が大きく影響しているように思われる。私は5人兄弟の長男で、1965年生まれで5人というのは珍しく、しかも末の弟が誕生した時、私はすでに中学1年生だった。

 「佐川の父ちゃんと母ちゃん、頑張ったなあ」

 サッカー部の先輩にそう言われて、中1の私は、赤ちゃんを産んだ母は確かに頑張ったが、父は特に何をしたわけでもないと、頭の中で反論した。

 先輩の言葉が、妊娠に至る行為を指していたことに気づいたのは高校生になってからで、何かの弾みで、なんだそうだったのかと合点したところを見ると、ずっと気持ちのどこかに引っ掛かっていたのだろう。

 そして2児の父として日夜家事に追われる身になった現在、「佐川の父ちゃんと母ちゃん、頑張ったなあ」という先輩の言葉は、実は嘲りではなく、「性交+出産+育児」に捧げられる労力の総和に対する賛嘆として発せられたのではないかと、私は勝手に解釈している。

 それでも交際中の女性が妊娠し、相談の結果やむを得ず中絶手術を受けてもらうといった経験があれば、私の性質および人生観は重大な変更を迫られていたに違いない。しかしながら、「男性不妊という苦難」でも述べた通り、幸か不幸か、私は性交によって女性を妊娠させる状態になかった。

 私が「中絶」や「流産」といった用語に殊更動揺してしまうのは、そうしたやや特殊な個人的事情も関与しているのだろう。

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 もっとも世界を見渡せば、4年に1度の米国大統領選挙において、毎回必ず「人工妊娠中絶」の是非を巡る議論が国民を二分して戦わされているわけで、中絶は決して解決済みの問題ではない。なぜならそれは、「人間の命とは何か?」という根源的な問いかけを誘発せずにはおかないからだ。

 人間はいつ人間になるのか? 卵子と精子が結合する受精の瞬間か? それとも受精卵が子宮に着床した時か? 受精卵が胚となり、脳や脊髄が形成された時か? もっと下って、母親の胎内から誕生し、産声を上げた時なのか? つまり、どの時点までであれば、「望まない妊娠」によって生じた胎児を排除することが許されるのか?