ノルウェーで起きた大量殺人事件は「キリスト教原理主義」を標榜するものでした。しかし、旧約・新約聖書のどこをひっくり返しても、イスラム教徒を撃てなどとは書かれていません。それは当然でしょう。ムハンマドがコーランを口述したのは新約聖書ができてから500年ほども後のことなのですから。
「異教徒」に対する姿勢としてはユダヤ教の聖典である「旧約聖書」に厳しい記述がありますが、新約旧約の双方を聖典とするキリスト教は、仮に「原理主義」に回帰するとしても「汝殺すなかれ」など、非暴力無抵抗の平和主義側に大きく傾くことになります。
また、この事件を海外の報道で見ると「原理主義」ではなく「Christian extremes」キリスト教過激派という表現が使われています。恐らくアンネシュ・ベーリング・ブレイビク容疑者本人も、これに相当するノルウェー語を使っているのでしょう。
キリスト教にのっとるとして、極端な暴力行為を容認した例としては、中世の十字軍運動や魔女裁判がすぐに思い浮かびます。
が、どちらも近代法制の整備とともに完全に否定されており、「キリスト教過激派による民族浄化」といった虚妄を曲がりなりにもサポートする屁理屈は、21世紀の今日、国際社会に存在していないのは明らかです。
それでもブレイビク容疑者は、こんな幼稚で利己的なストーリーを振りかざして、現実に70人からの人の命を奪いました。
この背景には、中東方面からの積極的な移民受け入れの政策を取るノルウェー現政権、労働党首脳部の方針があった、とされ、未来の労働党を担うよう期待されていた14歳から20代前半までの若者を狙って「世代全体の殲滅」という、通常では考えつかない行動に出てしまったわけです。
かつてソビエト・ロシアでは、ポーランドを弱体化させるべく、有能な青年将校を1カ所に集めて虐殺する「カチンの森」事件で、一国の未来の勢いをそぐ、という暴挙に出ましたが、このようなことは今日、いかなる国際法も正当とは認めていません。
が、逆に考えれば、それらが不当である、と談じられる背景には、こうした「根絶やし」の発想、焼き尽くし、奪いつくし、殺しつくす「三光策」のような絶滅戦略が、歴史を通じて連綿と存在してきた、ということでもあります。
どこまで「殺し尽くす」のか?
例えば日本の戦国時代を考えれば分かりやすいでしょう。豊臣秀吉と柴田勝家が戦う、豊臣氏が勝つ、柴田氏は滅亡、一族郎党は捕まれば全員皆殺し、そうなるまい、と自害して果てるといった話は、広く知られる通りです。
戦国大名の合戦でいえば、連座で全員殺されるといったことは、ごくごく普通のことでした。
逆に、戦国時代であっても、合戦と無関係な一般民衆は、侍同士の戦いなど無関係に農耕などの日常労働にいそしんでいた。
しかしこの「連座」という考え方は、決して一般民衆にも無縁なものではありませんでした。
合戦のような場合だけでなく、一般の犯罪、例えば物取りや刃傷沙汰のようなケースでも、ひとり下手人のみならず、その家族、親子兄弟姉妹までが「連座」に問われるケースが、封建時代には決して珍しくはありませんでした。