死者が現世に現われて、生の世界、死の世界が舞台上で混在する「夢幻能」の形式が能にある。今はいない人を語る物語は、いなくなった後の時間の重さが加味されているだけに、とても深みがあると思う。この小説は、「阿部轍正」という、平成元年(1989)に死んだ人物について話が進む。

復員して手に入れたビルには孤児が

 阿部轍正は、昭和24(1949)年に27歳で復員し、ゆくゆくは農業研究に戻るつもりで大阪・十三界隈で “骸骨ビル” と呼ばれる堅牢な3階建てのビルを手に入れたが、ビルに入ると、戦争孤児の幼い姉弟が隠れ住んでいた。

骸骨ビルの庭(上)』宮本輝著、講談社、1,575円(税込)

 むげに追い出せないでいるうちに、孤児たちが次々とやってきて、親友の茂木泰造とともに育ての親になる。ところが、育てた子供の1人、桐田夏美に「かつて性的暴行を受けた」と訴えられ、「無償の慈善の仮面をかぶった稀代の色魔」とマスコミに書き立てられて、汚名を着たまま死んでしまった。

 物語の語り手は、阿部とは見ず知らずの八木沢省三郎。平成6(1994)年、不動産管理開発会社から派遣されて八木沢が骸骨ビルに赴くと、茂木泰造らが居座っていた。ビルの権利者の1人と夏美のつながりを知った茂木は、阿部の冤罪が晴れるまでは居座ると言い、40~50代に成長したかつての孤児たちが茂木を守っている。

 穏便に立ち退き交渉を進めようと管理人として住み込んだ八木沢は、バイタリティと情にあふれた人々と親しくなり、彼らの話から、阿部轍正という人物を知っていく。

 家庭料理の店を営む比呂子は、昭和17(1942)年生まれで、父がラバウルで戦死、大阪の空襲で母と兄を亡くし、7歳で骸骨ビルにたどり着いた。ダッチワイフ製作を生業にする市田は昭和16(1941)年生まれで、父がビルマで戦死、母はお産で死に、妹と重度の障害がある弟とともに阿部に育てられた。