「いや夜会はいいもんだね。私のところでも来年匆匆(そうそう)仮装舞踏会をやろうと思っているんだよ…」―。伯爵夫妻主催の夜会ではしゃぐのは、時の内閣総理大臣・伊藤博文。思い切り背伸びして西洋文化に追い付こうと、各国高官を招いては連日夜会を開いた明治の貴族文化を、三島由紀夫は戯曲『鹿鳴館』(新潮文庫)の中でシニカルに描き出した。外国人から「猿の踊り」と揶揄(やゆ)された鹿鳴館外交は短命に終わり、レンガ造り2階建ての洋風建築は昭和初めに民間へ払い下げられた。

 今、東京・内幸町の一角で鹿鳴館の跡を示すのは、帝国ホテルとの間の壁に千代田区が埋め込んだ小さな石碑だけ。大方の人はそれに気付くことなく、鏡張りのような壁面の高層ビルに吸い込まれていく。「西洋の猿真似」と批判を浴びた鹿鳴館の解体から68年。今度は、米国発の金融危機に巻き込まれ、館を買い取った企業の寿命が尽きた。

 1911年創業の日本徴兵保険は30年に本社を鹿鳴館跡地に移転し、戦後は大和生命保険に社名変更。60年代に業界最高水準の契約者配当を実施し、84年には26階建て高層ビルを建設した。2001年に破綻した大正生命保険の「受け皿」となるなど、一時は「勝ち組」に名を連ねていた。

「鹿鳴館」売却後、運用リスク拡大

鹿鳴館跡地の大和生命本社ビル(中央)

 しかし、契約者からカネを預かり、資産運用を行う生命保険業はスケールメリットがモノを言う「装置産業」。保険料収入が業界41社中36位の大和生命と、大手との間の格差は開くばかり。バブル崩壊後の超低金利と株安が長期化する中、止むなく同社は2005年に本社ビルを不動産投資信託会社に600億円強で売却し、「大和生命ビル」を賃借することになった。

 これで基礎利益が黒字転換し、見かけ上は業績が上向く。しかし、「遺産処分」の後、不動産ファンドや仕組み債など高リスク商品への運用に追い込まれた。関係者は「外資系を含め、複数の保険会社を相手に身売りを打診したが、うまくいかなかった。金融危機でリスク資産を換金できず、万策が尽きた」と証言しており、金融庁が9月の立ち入り検査で引導を渡したと言うより、実際には「自主廃業」に近いもようだ。

 大和生命の場合、鹿鳴館跡地という「虎の子」を3年前に売却した時点で、事業継続の見通しが立たなくなっていたはず。危機に直面した企業の死命を制するのは、経営判断の「スピード」。しかし、同社は「勇気ある撤退」を決断できず、相場頼みのギャンブル経営に陥り、経営破綻という最悪の結果を招いてしまった。