中国にとって2008年の北京五輪は国威発揚の好機だった。その前代未聞の大規模、かつにぎやかな開幕式を見た中国人のほとんどは、中国人として誇らしさを感じたに違いない。

 振り返れば、1974年の全人代(全国人民代表大会)で当時の周恩来首相は、「今世紀末までに、4つの近代化を実現し、社会主義の強国を建設する」と宣言した。その後、鄧小平は周恩来の遺志を実現するために、「改革開放」の道を選んだ。

 中国の経済・社会の現状を見れば、鄧小平路線の成功を否定することはできない。GDPは30年前の6倍以上に拡大し、2007年にドイツを抜いて世界3位を誇るまでになった。そして、2008年に1人当たりのGDPは、予測より2年も早く3000ドルに達した。

中国人が待ち望んでいた中国の再生

 中国人はどんなに困窮な状況に陥っても自らが世界の中心であるという潜在意識を持っている。その心の支えとして挙げられるのは、かつての唐の時代のような歴史的な繁栄である。

 米国の経済学者、マディソン教授の推計によれば、唐の時代の経済規模は世界の58%に上ったという。1820年には32%に低下したものの、依然として世界の3分の1に相当していた。しかし、1979年になると、中国の経済規模は世界の5%しかなく、日本の5分の1に縮小してしまった。

 長い間、中国人は中国の再生を切実に望んできた。だが、それはなかなか実現できない夢だった。

 60年前に、共産党は国民党を倒し、共産主義の政権を樹立した。なぜそれを成し遂げられたかというと、国民が豊かになるユートピアを提示したことが大きな理由である。人民が共産党と一緒になって資本家や地主などの有産階級を倒し、人民の天下になるという夢を示したからこそ、共産党が人気を博したのだ。

 しかし、有産階級を倒した中国はますます困窮に陥った。哲学者の劉再復教授によれば、「中産階級(有産階級)はある種の理想をもって造反するが、農民は何の理想もなく造反する」と言われているそうだ。要するに、武力で国民党政権を倒した共産党は、国づくりについては素人だったということである。

鄧小平の「改革開放」政策という奇手

 では、鄧小平の「改革開放」政策はなぜ成功し、中国人の夢をかなえられたのだろうか。

 当初、鄧小平の考え方は国民の間でコンセンサスが得られたわけではない。保守派の政治家の多くは、鄧小平の急進的な哲学に反対だった。