裁判官も学生も芸術とは何かを考えたこともなかったのだろうか

 12月4日、東京地方裁判所でとんでもない判決が下されました。

 今後、高裁、最高裁と議論が継続する必要があると最初に結論を記しておきます。

 日本学術会議がどうした、といった騒ぎと比較にならないほど、本質的な「表現の自由」や「学問の自由」への司法の独断的な論旨で、亡国という言葉が脳裏をよぎりました。

 何があったのか?

 京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)は2018年、「ヌード」をテーマに東京都内で5回にわたる連続講座を開いた。

 それに参加した受講生(女性)が「講師からわいせつな作品を見せられ精神的苦痛を受けた」として大学側に約330万円の損害賠償を求める裁判を起こした・・・。

 この時点ですでに世も末と言わざるをえない。利用者様大事のカルチャーセンターと大学の区別がついていない末期症状と思います。

 この訴えに対して、あろうことか東京地裁(伊藤繁なる判事の見解のようですが)は「わいせつな作品を受講生に見せたことをセクハラにあたると認定、大学側に、講義内容を事前に告知するなどの義務を怠ったとして、約35万円の賠償を命じる判決を下したという。

 これのどこが、どう、終わっているか、裁判官の低教養ぶりとあわせて、検討してみたいと思います。

大学はエンターテインメントパークではない

 まず「大学」ですが、いい迷惑と言わざるを得ないでしょう。講師が何を話すか、事前に告知する「義務」を怠った・・・。

 こんな判決で牽制されたら、ただでさえ少子高齢化で教育サービス産業に成り下がっている関係各位は、委縮の極みになってしまう。

 私自身週4~5つの授業を抱えていますが、学生の進度とか準備、時事の出来事などで講義内容なんていくらでも脱線するものです。

 例えば「AIの基礎となる数学を教えます」という看板は出していても、新型コロナウイルス感染症が流行ればその予測へ内容を急遽変更します。

 また、時事で「GOTO」などあれば統計の初歩的な適用ミスで、モビリティと感染が無相関とか誤った結論も普通に出せてしまうとか、当初予定していなかった内容に言及します。

 それは政府批判とか政治的なものでは一切ない。ただ単に、例えば上の場合は「グレンジャー因果性」という概念を素人が間違って使うとどれくらい手ひどい誤りになるか、という具体例として出すのであって、重要な教科内容の本質に直結します。