(文:麻木 久仁子)
“食育では、一緒に食べることの大切さ、家族揃って食卓を囲むことの大切さが説かれます。けれど、商売をやっている家庭や、親が働いている家庭では、一緒に食卓を囲めないのは当然で、親が用意した汁を自分たちで温めて、子どもだけで食べる。そんな家庭はたくさんあると思います。それでも、大切なものはもうすでにもらっています。それが手作りの料理です、愛情そのものです。だから、別に一緒に食べることばかりが大切じゃないのです。”
“だれもいない夜、両親の帰りが遅いとき、鍋焼きうどんの材料が全部入った皿が台所に用意してあったら嬉しいでしょう。うどん、鶏肉、かまぼこ、しいたけ、ねぎの切ったものが入っています。一人用の土鍋に入れて、だし汁を張って火にかけて煮立てて、うどんを煮込みます。熱々の鍋焼きうどんをテレビの前で一人で食べた夜は、私にとって大切な思い出です。”
このくだりを読んで、胸がじんとして、涙が出てしまった。しばらくページをめくる手が止まったのである。思えば、子育てと仕事に追われながら精一杯やってきたつもりでいても、心のどこかに、いつもいつも子どものそばにいてやれる訳ではないことへの後ろめたさがあった。キャラ弁など他のお母さんが作る手の込んだ弁当に比べたら、手抜きと思われないかしらと気になったこともある。品数の多さが愛情の量のような気がして、なんとかあと一品と思い、ヘトヘトになったこともある。
怒涛のように忙しい時が過ぎ、子育ても一段落して、ふとあの頃を振り返ると、頑張っているつもりだったけれど足元はいつも不安定だったのかなあと思う。品数とかひと手間とか、そんな目に見える形で愛情を示さないと、親としての自信を失いそうな気がしていたのだと思う。
だからこの一節を読んで、なんだか許されたような気がしてホッとしたのだろう。
同じように感じる方も多いのではないだろうか。