有田焼について理解を深める意味もあって、これまで本題から脱線を重ね佐賀藩の歴史について触れてきた。しかし、アームストロング砲や反射炉などについて触れてしまったせいで、思わず"虎の尾"を踏んでしまったようである。
戦時中、日立製作所で空母用のエレベーターを設計していた老父の目にこの記事が止まり、呼びつけられて潤滑の歴史について講義を受ける羽目になってしまったのだ。
第2次世界大戦末期、大砲や機関銃の弾などに銅合金が大量に消費されてしまい、日本国内で深刻な銅不足を招いた。その結果、様々な機械部品の軸受に使われていた砲金とよばれる銅と錫の合金が手に入りにくくなってしまったという。
この場合の軸受は、自動車や自転車などによく使われている金属球を使う転がり軸受ではなく、回転軸を金属製の円筒に通しその間に注油して軸受とするすべり軸受けのこと。船にスクリューを通す部分を想像すれば分かりやすい。
耐摩耗性、耐浸蝕性、潤滑性に優れた砲金はこのすべり軸受けにぴったりだった。
技術者が考えた苦肉の策
一方で、幕末に欧米でも十分に普及していない段階で佐賀藩がいち早く開発・実用化に成功たアームストロング砲には砲身にらせん状の切込みがしてあり、弾が回転して飛び出すようになっていることは前に書いた。
このらせん状の切込みがある鋼鉄製の砲身内を弾が回転しながら進んで行く際にも、砲身を傷つけず、自らも傷ついて暴発しないためには、やはり砲金の優れた特性が必要だった。
この結果、大砲や機関銃の弾頭の材料として大量に使用されることになり、第2次世界大戦末期にはついにすべり軸受けとして使う分にも不足するようになってしまったわけである。
困った技術者たちは別の金属で代替する方法を早急に考え出さなければならなくなった。しかも戦時中のこと、使える材料は限られている。そこで知恵を絞った結果生まれたアイデアが、鉄の鋳物を軸受に使えないかというものだった。