ゴールデンウィークも終わりに近づいた5月4日、ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)が、「明治日本の産業革命遺産」を世界文化遺産に登録するよう勧告したという発表を受けて、該当する施設に観光客が殺到したそうである。
一方で、韓国や中国は日本の軍国主義を代表するものだとして強く反発している。日本人にすれば何をいまさらという気持ちになりがちだが、100年経とうが200年経とうが歴史を忘れることができない人がいることを気にとめておかなければならない。
鎌倉時代、日本は2度にわたるモンゴル軍の襲来を受けた。朝鮮から九州への航路に当たった対馬や壱岐では男子は皆殺しにされ、女子は手のひらに穴を開けられ縄を通され、つながれ連れ去られるという凄惨な歴史を経験している。また略奪の限りを尽くされた。
そうした虐殺や略奪は九州でも起きたと言われている。そしてその記憶は簡単に忘れ去られるものではなかった。
その後、朝鮮の沿岸を襲う倭寇の記憶にも刷り込まれていたという。モンゴル軍が襲来したあたりに土着していたのは松浦党と言われる人たちだった。古くは源平合戦の頃、平家軍の水軍の一翼を担っていたとされる。
元寇への復讐の意味もあった倭寇
元寇の際にも、得意の操船技術を生かして元軍の大型船に小船で立ち向かい、夜襲によって元軍を大いに悩ませたという。彼らの一部は元寇の後、倭寇として朝鮮半島沿岸を襲うようになるのだが、その意識の中に「歴史認識」があったと言われている。
司馬遼太郎は「街道をゆく」の中で次のように書いている。
「かれら(松浦党)が、元寇のあと、いわゆる倭寇活動を開始するのは、報復の意識が多少はあったに違いない」
朝鮮の沿岸が復讐の対象とされたのは、日本を襲った元軍の多くが朝鮮の高句麗から徴用された人たちで、虐殺や略奪の限りを尽くしたのも彼らだったからである。執拗な倭寇の襲来を受けたことも影響して高句麗は疲弊し、滅亡へと向かった。