「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」
11月23日の勤労感謝の日について、1948年公布・施行された「国民の祝日に関する法律」第2条はこう記している。近年、ワーキングプアや過労死、ブラック企業といった報われぬ勤労や、ニートのような勤労否定などがキーワードとなるトピックスは多いが、国民は実際のところ、尊んだり祝ったり感謝し合う気持ちになっているのだろうか。
機械が仕事を奪う現実が突きつけた課題
普段深く考えることもないが、日本国憲法には「国民の3大義務」として「教育」「納税」とともに「勤労」があることを、誰もが「義務教育」の中で教えられてきた。
もちろん、強制労働を認めているわけではない。「すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」という27条に記されているのは、職業選択の自由が認められている以上、あくまでも精神的指針、道徳的・倫理的規定だというのが大方の解釈のようだ。
そもそも、国民の自由や人権を守るため国家権力の暴走を止めるべく憲法は存在し、国の経済事情を示す指標として失業率がある資本主義自由主義社会において、そんな義務が成立しようもない。
そこにはソ連の「スターリン憲法」の影響を指摘する説がある。
「『働かざる者は食うべからず』の原則により、労働能力のある市民の義務であり名誉」として労働が規定されているその憲法の存在を知れば、制定前年撮られた近未来SF『機械人間 感覚の喪失』(1935/日本劇場未公開)は実に興味深い。
ロボットの登場に立場を脅かされた労働者たちの闘いが描かれるその映画は、そんな憲法の精神を謳い上げているように見えるからだ。
そうした労働観念とは別に、機械による仕事の喪失は、今に至るまで社会に重い課題を突きつけ続けている。
1811年、ラッダイト運動支持者たちが自動織機を破壊して以来の労働者の心にある恐怖であり、テクノロジー進歩による構造変化ゆえの職種そのものの消滅は、人工知能の進化により、肉体労働から頭脳労働へと移行しつつある。
それでも、これまでは、新たなる仕事の創出でそれなりに失業者数は抑えられてきた。しかし、今のサイバー世界の進化スピードは実に速い。実世界の仕事創出が追いつくものか、懸念は大きい。