ソチ・オリンピック開幕まで2週間あまり。代表壮行会のニュースが流れ、大会への期待が高まるなか、新たなるテロの脅威、といった報道もあり、この地が北コーカサス(カフカス)という不安定な地域であることも再認識させられる。

 「スポーツと政治は別」と言いながら、こうした場は、世情に無関係にはいられない。そんな現実に直面しながら、アスリートたちが生み出してきたドラマの断片を、大会の歴史を追いつつ辿ってみることにしよう。

1928年、サンモリッツ大会から日本が参加

ソニア・ヘニーがタイロン・パワーと共演した「銀嶺のスタア

 1896年にスタートを切った近代オリンピック。その競技種目にウィンタースポーツはなかった。

 しかし、欧州でのスケート人気も手伝い、第4回大会からフィギュアスケート、1920年にはアイスホッケーも登場。1924年、シャモニー・モンブラン大会(フランス)が開催されることになる。

 とはいえ、あくまでも夏季パリ大会の一環との位置づけ。結果次第で、正式に冬季大会と認めるか否か決める、というものだった。

 日本は、1928年の第2回サンモリッツ(スイス)大会から参加。入賞第1号となったのは、36年、第4回ガルミッシュ・バルテンキルヘン(ドイツ)大会、スピードスケート500メートル4位の石原省三だった。

 この大会には、のちに「日本女子フィギュアスケートの先駆者」と呼ばれることになる12歳の少女、稲田悦子も出場、10位となっている。

 そんな女子フィギュアスケートのスターは3連覇を達成したソニア・ヘニー。11歳で出場した第1回大会では8人中8位だったが、ミニスカートなどの衣装も注目を集め、以後10年あまり、オリンピックのみならずほとんどのタイトルをものにしていた。

 24歳になったヘニーは、五輪後、プロスケーターへと転向。「Hollywood Ice Revues」を成功させるとともに、ハリウッド入り。『銀嶺セレナーデ』(1941)など、自らのスケートシーンをフィーチャーしたロマンティックコメディを次々とヒットさせ、Money making star となった。

 第4回大会の舞台ドイツでのアドルフ・ヒトラーとの写真やナチス幹部との交流などを取りざたされることもあったが、世界フィギュアスケート殿堂入りを果たし、「Hollywood Walk of Fame」にもその名を刻んでいる。