マキァヴェッリの「戦争論」はタイトル通り戦争の方法を書いている本です。同じ戦争を扱っているからでしょう。15世紀ヨーロッパで「孫子」など中国古典の兵法書をマキァヴェッリが読んだとは思いませんが、較べてみるとけっこう同じようなことが書かれています。

 〈慎重な将軍は、部下の将兵を戦闘が避けられない情況に追い込む。〉

 (『ディスコルシ 「ローマ史」論』、ニッコロ・マキァヴェッリ著、永井三明訳、ちくま学芸文庫)

などはその典型で、要は「背水の陣」の有効性を説いています。漢の名将、韓信が、逃げるところがない川を背にした場所に兵を布陣して、死にたくない兵士は必死に戦ったのと同様のことをやれということです。

コニャック同盟の参謀になったマキァヴェッリ

 マキァヴェッリの場合、これには応用編があります。部下を死地に追い込むだけではなく部下が上司を死地に追い込むバージョンです。

 1525年、イタリアのロンバルディア地方のパヴィアで、フランスとスペイン・神聖ローマ帝国軍(当時、両国はカルロス王1人の所有だった)が会戦し、フランス王のフランソワ1世が捕虜となりました。翌年、屈辱的な条約を結ぶのと引き換えに解放されましたが、汚名をそそぐためフランソワ1世は無理強いされた約束は守る必要はないとばかりに条約を破棄し、「コニャック同盟」と呼ばれる対スペイン・神聖ローマ帝国包囲網をつくります。

 このとき、メディチ家出身の教皇だったクレメンス7世は、フランスの呼びかけに応じて、フランソワの側につくことを決定します。イタリアをわが物としようとしていたカルロスに対抗するためでした。

 クレメンス7世を擁する教皇軍の総司令は、マキァヴェッリの親友だったフランチェスコ・グイッチャルディーニです。そして彼のそばにはマキァヴェッリが参謀のごとく付き従っていました。反メディチ派としてメディチ家から最大級の警戒をされていたマキァヴェッリも、20年近い仕官の努力が実ってメディチ家からも認められるようになっていたのです。