福島の汚染水周りの報道を目にすると暗澹たる気持ちになります。強く思い知らされるのは、人間が勝手に決められる法規その他と、人間の都合ではどうにもならない物質の条件、自然法則の冷徹さの距離です。
かつ、この後者の認識が、立場の差を超えて一様に甘いのが本当によくないと思うのです。原発で言うなら「推進論者」側も「廃止論者」側も、実は核物質の物性や原子核の物理の大半をブラックボックスにしたまま、いろいろな議論をしている。
その全体がそもそも大変危ういものだと言わねばなりません。そこで「防災の日」を前に、前回までの話題をもう少し先まで展開してみたいと思います。
少し話しが飛ぶように思うかもしれませんが、前々回「終戦の日」に「ナチス憲法などというものはなく、逆に憲法があっても有効に機能しないセキュリティ・ホールを作ってしまったがためにアドルフ・ヒトラーの独裁が可能になってしまった」という経緯を振り返りました。
この原稿を書きながら改めて思い出していたのが、意外に思われる方が多いかもしれませんが、1999年9月30日に発生した茨城県東海村での「JCO臨界事故」です。
1999年9月当時、当時私はまだフリーランスの作曲家、指揮者として生活していましたが、同時に慶応義塾大学で教え始めており、東京大学に音楽の研究室を開くことも内々には決定していて、実際10月13日に人事が通って、続く時期「作曲指揮研究室」の立ち上げが忙しくなり始めた時期でした。
たまたま私たちの作曲指揮研究室が「工学部2号館」の1階に部屋をもらうことになり、工学系の先生がたと様々なご縁ができ、プロジェクトなどもご一緒するようになりました。
そこで「安全・安心」を扱う最重要喫緊課題としてJCO事故の原因究明や再発防止が取り上げられるのをつぶさに見、一般に報道される以上の細部を知って、病の根は深いと思わざるを得ませんでした。
JCO事故を振り返る
JCOの事故を振り返ってみましょう。
1990年9月30日、東海村のJCO核燃料加工施設内での作業中に原料ウラン溶液が「臨界状態」に達して核分裂連鎖反応が発生、至近距離で中性子線を浴びた作業員2人が死亡、1人が重症700人近い被曝者を出す惨事となったものです。
臨界事故が起きた理由は、JCOが企業として進めてしまった「経営の合理化」にあります。
各種の安全基準を守ろうとすると、様々なコストがかかりますが、1990年代の不況の中、核物質管理の詳細を知らない経営コンサルタントの大変危険な「合理化案」を採用したり、現場で工程を「簡略化」したりして、あってはならない事故を引き起こしてしまいました。
ウランというのは重い金属です。6フッ化ウランなどを含む溶液をビーカーやフラスコの中に入れておくと、比重が重いですから当然沈殿する。
すると、その沈殿によって単位体積当たりのウラン密度が上がり、放射能の密度、具体的には中性子線の密度も上がって核分裂反応の頻度が上昇します。それが自走状態に陥るのが「臨界」ですから、当然ながら臨界事故のリスクが高まってしまいます。