私たち人間は「正義」が好きです。どこの国の伝承や神話を見ても英雄、正義の味方が登場しないものはありません。人間は「正義」とともに生きてきたと言ってもよいかもしれません。

 そして、その「正義」こそが、あらゆる戦争や残虐行為の源泉でもあるという冷静な事実を、終戦の日の週に振り返っておくことには意味があると思うのです。

憲法は「正義」ではなく「正義のストッパー」

ヒトラーがベンツの値引きを頼んだ手紙、オークションに ドイツ

ベンツの車上から閲兵するアドルフ・ヒトラー〔AFPBB News

 このところ「憲法」が社会的に議論に上ることが少なくありません。ここでちょっと変わった質問をしてみましょう。

 皆さんは「憲法」は「正義」だとお考えになりますか?

 「何を言っているんだ、憲法は正義に決まっているじゃないか」という声が聞こえてきそうですが、実は私はそうは思わないのです。この確信を私は、刑事罰を巡るEU本部とドイツ連邦共和国の合同プログラムを通じて強く持つようになりました。

 そもそも「正義」とは何か・・・?

 これ自体が難しい問題です。しかし、いま私たちが通常の社会で生活していて、何か争いがあるとき、何が正義で何が不正であると判断するかと言えば、マスコミの不正確な報道などは別として、筋道としては裁判所、つまり法廷が、その別を決定しているはずです。

 これは法律的な意味での「正義」「不正」であって、法廷の決定、つまり「判決」が字義としては「正義」を表すはずです。が、実際にはあらゆる判決に不服や不平はつき物です。日本では裁判は3審制で、自らに有利な「正義」が争われる。

 つまるところ、法的な「正義」というのは、実は相対的なものでしかありません。

 憲法というのは、そういう「個別の正義」を代表するようなものであってよいのか・・・? もちろん「否」と言わねばならないでしょう。

 むろん、憲法の内容が「不正義」であってはなりません。その意味では憲法もまた「不正」の反対側に立つものですが、憲法は単に「個別の正義」を実践するものではない。

 既存の法律に従って、裁判所が下す「個別の正義」、あるいは政府が実施する「個別の政策」や立法府が新たに定める「個別の法律」、こうしたもの全体をチェックする役割、もっと言えば、それら「正義の暴走」に対するストッパーというのが、憲法という法律、つまり国の基本法典が持つべき、最も重要な役割であると思うのです。