尖閣列島の国有化に対する反発に端を発した中国の反日感情の高まりが、日本車に向けられてその販売が激減している。表面的には、国家間の感情的軋轢がビジネスの足を引っ張っている、という現象である。けれども、自動車という工業製品の、そして商品の実態を知る者としては、その先に少なからず不安な気配を感じてしまう。それは、人々が「ものを買う」という行動の深層に関わるテーマでもあるのだが。

 筆者の専門中の専門分野である(であった、と言った方がいいが)「自動車雑誌」という商品ジャンルにおいて、その斜陽化はバブル期すでに、心ある人々にとっては切迫した状況として見えていた。端的に言って「中身が希薄になる」一方だったのである。

 時代とともに変化する自動車と、乗る人とのつながり、社会との関わりを語ろうとする努力が消え、旧態依然かつ定型に当てはめることを繰り返すだけ。その一方で、自動車というジャンルに限らず、雑誌類はその採算を広告収入に頼りきる形になってゆく。取材費や編集製作費、造本経費のほとんどを広告収入でまかない、本が売れて取次会社から支払われる売上金額が利益に回る、というやりくりが常態化してゆく。

 ちなみに日本の雑誌の場合、再販制度に沿って書店への流通を取り仕切る取次(大手の日販、東販の寡占状態)が受け取る流通委託手数料はいまや定価の40%以上に達し、しかもその支払期日は発売から4カ月かそれ以上先(書店からの返本、すなわち販売部数が確定した後)というシステムである。全国の書店に「撒く」にはそれなりの部数を刷らなくてはならないし、しかし返本率は最近40%以上が当たり前、つまり刷った部数の半分しか売れない状況に陥っていて、これが出版社の経営を圧迫している。

 その中で、まずは「買ってくれるかどうか分からない読者」よりも「確実にお金をくれる広告主」に気をつかい、「新しい企画」を回避し、「これまで売れた実績のある企画を、同じようなやり方で」と守りに入る、という悪循環が続き、出版物の「劣化」、それ以上にそれを作る編集者や執筆者の「劣化」が加速しているのである。

「小さな成功」に囚われ「冒険」に踏み出せない自動車雑誌

 特に自動車雑誌の類に関して、私が実感してきたことがある。中身が薄くなる、劣化する、という状況が明白になってきても、あるところまでは読者、すなわち顧客が目に見えて減ることはない。「消費の慣性」があるのだ。

 そして、何かのきっかけで「買う」という行為を1回止める。買い忘れるとか、「邪魔ね」と言われて書棚を整理するとか、その「一時停止」にはいろいろなパターンがあるだろう。しかし、買わないで済ませてみると「いらない」ことに気付く。今の自分の求めている「何か」が、そこにはなかったことに気付く。こうして、顧客が離れてゆく。