この6~7年来、團藤重光先生が一貫してお嘆きだった1つに、若い人・・・この言葉は團藤先生の場合、80代以下の大半を指すのですが・・・が本質からモノを考えなくなった、表層としての事例、判例や前例を無根拠に踏襲する無思想、無理解がありました。

 「近頃の若い人は、本質を見なくなった。東大も、本当にダメになったね」

 現在も大学に教籍を置く身としては、なんとも居場所のないお叱りを受けるわけですが、この「本質」対「前例踏襲」という対立以前に、もう1つ、團藤先生のお言葉を拝借すれば、

 「この頃の若い人は、本質的な議論をしなくなったよ」という、考えようによっては、さらに根深い問題点があるように思うのです。

 この「本質的な議論」について、少し振り返ってみたいと思います。

戦わされた激論が法を鍛えた!

 團藤先生が「本質的議論」とおっしゃるのは、およそ人類が法を考えるうえで、原理原則から立ち上がり、ことによってはおよそ相容れず、「共に天を頂かず」というくらいに対立、激論を戦わせ合うような場が少なくなった現実が関係しているように思います。

 実際、東京大学というところに、私もかれこれ13年ほどいることになりますが、大学内で本質的な議論、それも激論と言ってよいような、がっぷり四つのディスカッションが戦わされることなど、ほとんどありません。

 では何があるかと言うと、まあまあ、自分のことは自分で、他人のことはほっといて、という蛸壺というよりはプランターか植木鉢が並んでいるような無関心が蔓延している気がします。

 何かと言うと「先生」「先生」と互いを呼び合うのも微妙です。「先生のおっしゃることはごもっとも」と、何でもヨイショするような人が「調整型」の人間として「役立ってしまう」ような大学。

 例え話で記すなら、F教授「身長170センチ」と言い、別のG教授が「体重70キロ」と言い、お互いが相容れないとしましょう。